『闇の自己啓発』の異常者マーケティングがうざい件について:でも「ほとんど無害」。

0. 本記事公開後、樋口さんからの応答

2021/02/12 15:05 ラッコさんによる樋口の書評への批判への応答

経緯など: 

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https://twitter.com/rrr_kgknk/status/1360102246785028098

1. はじめに

作家の樋口恭介さんから、"挑戦状"を叩きつけられました。名誉なことです。よし、受けて立とうじゃないか。という気力もないのですが、私の考えを説明した記事です。時間がない人は、「13. 最後に」だけ読んでください。3秒で読めますし、そこに本質の99%を込めました。

2021/02/22 13:00追記:【この記事までの経緯】/ 闇の自己啓発界隈vs経済学101(?)界隈 https://togetter.com/li/1666697

樋口さんは、自らの『闇の自己啓発』書評記事「正常としての異常な世界を生きること、あるいは異常者=正常者のためのセルフヘルプ」を、「読んで腐してほしい」と指定しております。

この樋口書評を土台に、これから論を展開します。

2. まずは些末な事実認識から:私は『闇の自己啓発』読んでから批判しているよ

ツイッターで、樋口さんは《
大滝瓶太さんの書評( https://gendai.ismedia.jp/articles/-/79822?imp=0 )だけ読んで『闇の自己啓発』を腐していた人たち》の中に、私ことラッコも含めています。これは事実に反しています。

最初に樋口さんが私を批判してきたポイント。それは、「こいつ『闇の自己啓発』に黄色マーカー引いてまで批判してるぜw」といった意図でした。

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https://twitter.com/rrr_kgknk/status/1359121602013655041

マーカー引くなら、普通に本買ってるでしょう。それにどんなに悪意ある奴でも、それなりに読んでないと複数のポイントにマーカーは引けないでしょう。

樋口さんのおかしなところは、

・最初「こいつは『闇の自己啓発』を買って黄色マーカー引いてる」と批判してきた。

・なのに今、「こいつは『闇の自己啓発』を読まず、大滝書評だけ読んで腐した」という矛盾した批判をしている点です。このため私は困惑しています。けど些末な事なんで、私は気にしてません。

3. 生きづらい人の「癒し」となる作家・樋口恭介は批判しない

これからが本題。樋口さんの書評について話します。

普通に読ませる文章だと思います。私は樋口さんの言ってることが全部間違いだとか、不快だとは思っていません。

なので批判に入る前にまず、私が樋口さんの何を批判したくて、何を批判したくないのかを、この節「3.」と次の節「4.」で明らかにします。

私が批判したくないもの:生きづらさへの「癒し」となる作家・樋口恭介

書評「正常としての異常な世界を生きること、あるいは異常者=正常者のためのセルフヘルプ」は、自己否定的だけど自己肯定的。やけくその元気さみたいなのがあります。適応できてるけど、出来てないんだ、本当は。そんな感じで正直、よく分からない。その中の認識には同意できない点も多いのですが、エネルギー溢れる文章です。人間って矛盾だらけだよ、その場しのぎ、合理的でないよ。といった点も、人や注目する状況によってバラツキがあるものの、そういう構えで生きざるを得ないのはよく感じます。

『文藝』2021年春号で、樋口さんの論考「未来を破壊する」を読んだ時も感じたことですが。樋口さんは心地よい文章を書きます。生きづらい人。無力感に苛まれる人。一見社会に適応しながらも、生きづらさを感じる人には、癒しや元気を与えるものでしょう。この点を否定するモチベーションも、理由も私にはありません。「後ろ向きのまま前向きに生きるような、アクロバティックなねじれ」もまた、時には必要かもしれません。

しかし。「癒し」言葉の実質が、カウンターカルチャー的な《反逆のすすめ》であることが問題です。

私が批判するもの:カウンターカルチャーのアジテーター・樋口恭介

樋口さんは論考「未来を破壊する」で、このように語りかけます。「役に立つことを徹底的に拒否し、役に立ち続けることを望む未来を、徹底的に破壊しなければならない」(同上・195頁)。そして具体的な反逆の実践として、例えば読者にこんなことを勧めています。

「構造にフリーライドせよ」、「仕事をやめろ」、「頼まれた仕事を断れ」、「大企業で、倒産するまでサボり続けよ」、「倒産するまで経費を使い込め」、「あらゆるものに抵抗しろ」(同上・195, 196頁)


でもちょっと待ってください。みんながこれをやると、結局みんなが貧しく、不便で、不幸な社会になってしまうでしょう? カウンターカルチャーの問題点が、ここには端的に現れています。

確かに規範に反逆することは、主観的にはクールで、英雄的にさえ見えます。しかし誰もがこのように振る舞うと、結局誰もが損をする。仮に樋口さんのファンだけがこう振る舞うと、今度はファン以外の真面目に生きてる人たちだけが割りを食う。

例えば"反逆者"と一緒のチームで仕事する同僚や部下、下請けは、どうなってしまうのか。サボったツケは、誰が払うのか。会社が倒産して、真っ先に路頭に迷うのはだれか。弱者は大きなダメージを受けます。

今度は反逆者が、真面目な人々や弱者を「抑圧」する側になってしまうのですね。従って反逆のススメは、「普遍化可能性(universalization)」テストに合格できません。また「強者」「権力者」を狙って反逆すると決めた場合。そうとう合理的に計画し、胆力を持って反逆しないとならなくなります。単にサボればいい話では済まない。

ここには文芸的な「癒し」、活動家的な反逆アジテーションへの「共感(エンパシー)」だけでは解決できない、社会批判の難しさが露わになっています。

社会批判および社会問題の解決には、合理的思考とかエビデンス。経済学やその他の人文・社会・自然科学の専門家。デビット・ライス的なもの。そのようなものの助けが必要ではないでしょうか。たとえそれらが、一見冷たく冷徹で、共感できず、癒しにならなさそうな存在であったとしても。次のようなメッセージに従うとみんな破滅します。共感と反逆精神だけで社会批判は成り立ちません。

「合理主義を拒否せよ」、「論理的思考を疑え」(同上・197頁)

4. 私は『闇の自己啓発』の何が気に入らなかったか?

宣伝スタイルです。

仮にこの本が、『2020年代の文化批評』みたいなタイトルで、穏やかな宣伝方法を取っていたら、噛みつかなかった事でしょう。

樋口さんの「ラッコはエアプだ」という批判は不当でした。しかし私が癪に障って反発したものは、本の中身よりも、宣伝スタイルにありました。

「『闇の自己啓発』は異常な本であり、何らかの形で資本主義"批判"の意義がある」こうした匂わせがあります。しゃらくせえなと感じました。(※ここでの「資本主義"批判"」には「抵抗」「破壊」「からの脱出」などを含む) 私がこれから論じていくのは、「異常性」をぶつけることが「資本主義社会」への批判にならず、むしろ適応的になってしまう問題系です。

例えば、役所暁さんの「まえがき」にも社会=資本主義への批判精神が、明瞭に読み取れます。

世間や企業、集団は「自己」を嫌う。とにかく上の言うことに逆らうなと、個人の思考や批評精神を封じる方向に動く。その波に押し流されてしまうと、個人はいつしか考えることをやめて、世間を構成する大波の一部になってしまう。[中略]そんなビッグブラザーの支配する世の中で、自己を奪われないためには何をすればよいのか。私は読書会こそがその答えであると思う。[中略]思考の種を播き、共犯者を増やしていくことが可能になる。少なくとも私はそういう思いで、読書会──「闇の自己啓発会」に参加している。(https://note.com/yakusho_akatsuki/n/n2586074158c0

樋口さんの書評に「資本主義」という言葉は殆ど出てこないものの、「この社会で生きること」の「この社会」が指示するものを考えれば、それは資本主義社会である日本しかないでしょう。

これから批判する「異常[者]マーケティング」は、資本主義社会を批判するどころか、資本主義における正常活動そのものです。もしも私が理解するように、樋口さんら関係者が「『闇の自己啓発』は異常な本であり、それゆえ資本主義への抵抗や破壊や批判やサボタージュ、資本主義からの脱出、オルタナティブの幻視といった意義がある」と宣伝していたならば、それは幻想にすぎません。

5. "異常"であることは、資本主義社会への批判にまったくならない。

樋口さんは、書評「正常としての異常な世界を生きること、あるいは異常者=正常者のためのセルフヘルプ」で、次のように語っています。

「私には友達が少ない。私は自分を抑えるのがとても苦手だ。リアルでもネットでも、異常な発言を繰り返してしまう。」

「本書は四人の異常者による、異常者のための自己啓発書である。異常者であるとはつまるところ、自分自身であることを意味している。自分自身である人はみな、社会にとっては余剰であり、異常であるからだ。だから、私もあなたも本質的に異常者である。普段はそれを隠しているだけだ。」
「そこには社会から逸脱する何かがある。そこには危険な香りがある。」
「むろん、これは反社会的な態度であり、そうした反社会性をまとった本書は、政治的に不適切な主張をも時に辞さない。」

「異常者」「社会的逸脱」「反社会的」「反社会性」…胸やけがしそうなくらいの異常者推しです。でも"異常者"って、現代社会の定番コンテンツですよ。

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https://screenonline.jp/_ct/17423883

異常さは資本主義を破壊するものではなく、時にドライヴさえする。資本主義は異常者をコンテンツにする。

『闇の自己啓発』には、そうした方向性で売りたいとの強い意思があります。嫌味に言えば、樋口さんは「異常者アピール」をしている。以後これらの言葉を端的に、「異常」とまとめます。またこうした意図や宣伝者を、「異常[者]マーケティング」と名付けます。なぜ異常なものは魅力的なのかを、後で論じます。

これから私は、「異常[者]マーケティング」を批判することを通して、二つの主張を論証していきます。

(1)異常性では、資本主義社会の外部に"Exit"できない。
(2)異常性では、資本主義社会を壊せない。

6. (1)異常性では、資本主義社会の外部に"Exit"できない。:なぜなら異常性とは希少性の一種であるから

樋口さんと、『闇の自己啓発』著者のひとり木澤佐登志さんの姿勢にはかなり違いがあります。樋口さんは「カウンター」という感じで、何かを壊す方に力点がある。木澤さんは「オルタナティブの幻視」という感じで、この社会の外部的なものの体験に力点がある。そして樋口さんが理解する『闇の自己啓発』は、この折衷解釈のような「逃走/闘争の物語」であると。

この節は、「オルタナティブ」方面へ向けた批判になります。

まずは『闇の自己啓発』の帯をご覧ください。

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「通常の3000倍の快楽」「薬やめたい」「世界に「充満」する岩倉玲音」「バ美肉おじさんたちのユートピア」「反出生主義」・・・いかにも「異常な本」であると宣伝したげです。

ところで私は、帯に「なるほど。『俺たち私たちのインターネット』ですね」、と言いたくなります。全く見慣れぬフレーズばかりではない。ツイッターで見慣れたバズワードをかなり混ぜ込んで、共感を付与しているのが上手い。

異常といっても、完全な異常性・希少性だと少ない読者にしか理解されないので、そこそこ手頃な希少性です。帯の文句はたしかにメインカルチャーじゃないけど、手垢がついた標語ばかりと言えます。

この帯について、樋口さんは「過剰さ」の表れだと表現しています。

また樋口さんの人間観によると、本来「過剰」「余剰」「異常」な存在である人間を、社会は抑圧する。そのためにひとの苦痛が生まれるといいます。

これらを踏まえて要約すると、樋口さん的な理解において、『闇の自己啓発』が構想する解放への道筋は次のようになります。

社会の抑圧に抗して、『闇の自己啓発』とその帯の記号群における異常な事例への認識や雑談に触発されて、ひとは再び「異常(=人間本来のすがたという意味ではそれが"正常")」な自分を認め・許してやることが出来る。それは本来的に「異常・過剰である」人間性を解放することである。

しかし私が思うに、樋口さんらが「異常マーケティング」でオススメしたい帯の記号群に象徴される「異常さ」と、人間に本来備わっているという不合理な性質とは、直接的にはそれほど関係ありません。前者は情報価値あるものとして売り手がアピールしたいものの羅列です。後者の不合理な性質があると自覚する人間には何らかの形で社会で活躍する人もいれば、活躍できない人もいます。

それでは「異常マーケティング」を仕掛ける側が、帯で宣伝したい「異常性」とは何か。それは社会のどこでも見かける、よくある、凡庸な生という意味での「余剰なもの」の反対にあります。ある意味で希少で、時に卓越したものです。

(仮に)正規分布で言うと、人間が異常に感じるものとは、下の図の端っこを占めるものです。

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https://www.weblio.jp/content/%E6%AD%A3%E8%A6%8F%E5%88%86%E5%B8%83

出る確率が低いレアアイテム。つまり、「異常マーケティング」が帯で宣伝したい「異常さ」とは、「希少性」がある情報のことなのです。冷や水を浴びせかけると、『闇の自己啓発』の帯文に見られる「異常なものたち」は、先述したように実は割とありふれています。「ほとんど無害」です。異常マーケティングの担い手は、「外部」や「Exit」とそれっぽく呼んで、あたかもその異常さが、分布のはるか向こう側にある極めて異常なものであるかのように宣伝したがります。なぜでしょう。

本当に異常なものならばそれは「希少なもの」でもあるので、商品価値が高まるためです。目立ちたがり屋や企業は、レアリティを煽ってみずからの所有する情報やキャラクターの商品価値を高めたいのです。反対に凡庸なもの、ありふれたものは、情報の商品価値が劣ります。

ここで大切な事ですが、「本当に希少なもの」や「本当に異常」なものに価値はないのです。「ほどほどに希少」「ほどほどの異常」、でも消費者にとっては「俺的/わたし的に本当に希少に感じられる」この匙加減が重要です。これこそ、顕示消費のドライブという資本主義の普遍的な法則の一つとなっています。

例えば読者のあなたがよく知っている物事や平凡な発想が、本を宣伝する帯に羅列されていたらどう思うでしょう。「セブンイレブン」「酒」「タバコ」「競馬」「アニメ」「誰でも名前を知ってる古典作品」・・・「あー、つまんなそう。カルチャー書籍としてはあまり期待できなさそうですね」。これらはちょっと凡庸すぎます。

これらが異常でなく、つまらなく感じるのは、日常で出くわす頻度が高いためです。希少なものではないからです。かつてのオタクはあからさまに知識でマウンティングしました。人が知らない希少な知識を持っているとアピールする事で、相手に対し優越できると信じていたためです。

雑な進化論的説明を添えれば、動物は、普段と違うものごとに鋭敏に反応する個体の方が、そうでない個体よりも野生で生き残れる確率が高まるでしょう。夜、薄暗い森の中でガサゴソと物音がすれば、"闇"に潜む"何か"に恐怖して注意を向けるとよい。たとえそれが肉食獣の出す物音ではなく、風で揺れる草木が擦れる音だったとしても。企業が応援して提供する"闇"の正体なんて、案外そんなものかもしれません。

そのため我々は異常っぽく見える状況や新規なものごとに、注意を向けてしまうのでしょう。またソースティン・ヴェブレン的な説明では、レアな物品を所持し、これを誇示する事で、自らの名声と地位が高まります。読者によっては、レア情報らしきものが盛り込まれた『闇の自己啓発』を所持することで、まるでブランド品を所持するような満足感を抱けるのかもしれません。また本書で交わされる雑談や注から、珍しい"教養"を仕入れる事も期待できます。

異常なものに注意を惹かれてしまう生き物:ヒトの性質を、企業は商品開発や、プロパガンダに利用します。映画産業は新しいモンスターやヒーロー、斬新っぽいストーリーや映像を、次々と送り出してきます。これらはある種「異常」なものですが、メインカルチャーです。そして大抵の映画は、予告編ほどには面白くないものです。売り手は潜在的消費者に向かって、異常さの誇大宣伝を浴びせかけることが常態なのです。こう捉えると、『闇の自己啓発』の宣伝方法と、メインカルチャーとの境界が、きわめて曖昧になってきます。

7. オルタナティブな現実・外部はどこにある?:資本主義の果てのレストラン

しかし次のような反論が考えられます。「LSDやフィストファック、そのほか帯に記載された"異常"な方法で、オルタナティブな現実を垣間見ることができるならば、それはExitできたという事である」と。

思うのですが、『闇の自己啓発』第四章のように、宇宙について雑談したり、思いをはせることと、人々がメインカルチャーに耽溺することって、何が違うんでしょう。オタクであればあるほど、作品を読み込んで、深くその世界に浸ることができるはずです。『闇の自己啓発』における雑談や紹介されるコンテンツは、メインカルチャーとは決定的に異質な「外部」を見せてくれるものなのでしょうか。それは異常マーケティングによる誇大宣伝ではないでしょうか。

普通に、「みんなで色んな本を読書したら楽しいよ」という正常な宣伝でいいように思えます。しかしつまらない。ただの読書会では大きな注意を惹けない。だから「異常マーケティング」は自己啓発や「普通」「通常」のコンテンツと差別化したくて、自らの"希少性"をアピールしたがります。「映画『ジョーカー』や『天気の子』の描き出すセカイの歪みを考察する」事は、ふつうにオタクもやってるじゃないですか(https://note.com/yakusho_akatsuki/n/n2586074158c0)。物は言いようで、こうしたアニメ批評、映画批評も異常なものとブランディングしてしまえば新しく売れる。仮に「闇の読書会」的なものが人々に流行って普及すると、「そういうコンテンツ」もまたありふれたメインカルチャーだと認知されて受容されて平凡になって終わり。ってことにもなりそうですね。

通常のコンテンツと、『闇の自己啓発』記載のコンテンツの差別化を正当化できる、本物の"基準"はあるのでしょうか?

一つヒントがあります。『文藝』2021年春号における木澤さんの論考「さようなら、いままで夢をありがとう」は、フーコーの影響下で、LSDやSMの可能性に注目しています。その理屈は、どうやら木澤さんが、「自分自身からの離脱」(332頁)や「あまねくアイデンティティも責任も蒸発してしまうような非―場所」(336頁)に憧れているからのようです。このフレーズは『闇の自己啓発』(334頁)にも登場します。

しかし必ずしもSMやLSDでなくても、こうした体験は発生するように思えます。例えばどんな作品でも、それに没頭している間は「我を忘れる」事でしょう。自分のことを誰も知らない人たちだらけの場所や、それまで未開だった場所、観光地ではない場所へと観光へ行くことでも、「何者でもない自分」になる事が、実現できるかもしれません。どちらもただの"消費活動"を超えるものではありません。

いずれにせよ、通常のコンテンツと、『闇の自己啓発』記載のコンテンツの間の"決定的差異"をわれわれ外野の人が、わざわざ認めてやるべきではないでしょう。その理由は次の節で論じます。端的に言えば、他と「差別化」して希少性を生み出すことが、資本主義ではごくありふれた企業の営業戦術に過ぎないためです。

それゆえ積極的に「ほどほどの異常さですね」、「メインカルチャーでもやってる事ですね」、「ナイフを舌なめずりする不良みたいですね」、「コンサータ1年目ではしゃいでる人みたいですね」、「LSDやってる最中の人と会話したら退屈だった」などと、生産者側の意図に冷や水を浴びせてやることが、真に「反資本主義」的な「ミームのハッキング」であるとさえ言えます。

8. 希少性を生産し、流通させることは資本主義社会の通常業務である

最近ヒットした人文書に、斎藤幸平さんの『人新世の「資本論」』(集英社新書; 2021年)があります。マルクス理解をアップデートするという本ですが、「異常性」「希少性」の分析が説明されています。当記事ではこの本への論評は差し控えて、希少性の分析のみ援用します。

斎藤さんは「希少性」と資本主義の関わりを、こう論じています。資本主義における企業や実業家は、だれのものでもなかったもの、人々が共有する資源である「コモンズ」(牧草地とか)を独り占めする。資本主義のアクターは無償のコモンズから資源を取り出し、人工的に「希少性」のある商品を作り出す。具体的に斎藤さんは、日本では潤沢で、本来無償であるべき「水」を、企業がペットボトルに詰めて商品化して売り出していること。また水道が民営化されれば、企業が水の供給を管理し、利益を得るためにどんどん値上げをするだろうことを例示します。

どちらも、「水」という本来「潤沢」に存在し、無償であるべきもの(私には、そう言えるか疑問ですが)を、企業が囲い込み、独占管理します。それが水を、ありふれたものから「希少」なものへと変える錬金術です。例えば100リットル0円だった水を、ペットボトルに詰めて1リットル100円で売る企業は、水の希少性を人工的に作り出し、増大させた事になります。ペットボトルに詰めて、きれいなラベルを貼って商品名を付けてCMを打つブランディングにより、消費者が感じる「希少っぽさ」を高める事ができるのですね。

希少性を人工的に作り出したり増加させる事は、資本主義社会における、ごくありふれた企業の日常活動です。

コモンズから私的所有になって変わるのは、希少性なのだ。希少性の増大が、商品としての「価値」を増やすのである。(同上・251頁)

斎藤さんの論述を前提すると、『闇の自己啓発』が宣伝したがる「異常性」とは、商品が持つ「希少性」の一種であると読み替える事ができます。異常性は希少性の一種です。書籍ビジネスは、まだあまり知られていないアングラな情報や、希少性が本当はそんなにない情報の宣伝を工夫し、「レア感」を増大させて売りたがります。その方が生産的だからです。演出方法の一つが、「この本は不道徳・反社会的、異常なものである」とさかんに喧伝することです。

すると、サブカル書籍ビジネスが宣伝したがる「異常なもの」とは、資本主義社会の脅威になるものでは全くない。全然ない。断じてない。と結論できます。なぜなら希少性の一種でしかない「異常性」を誇大にアピールすることは、商品に対する単なる誇大宣伝だからです。これは消費主義への批判者がしばしば指摘する、「企業は広告によって人々を洗脳する」という状況に他なりません。違いは、巧妙なバージョンだから人々に気付かれにくいことです。

したがって誇大宣伝をこの記事のように批判してやる事こそが、真に「反資本主義」的な振る舞いであると言えます。

9. 『闇の自己啓発』関係者は名声を得て、「成長」してしまう

ところで樋口さんは、大滝瓶太さんの書評が誤解を招くものだったと批判しています(https://twitter.com/rrr_kgknk/status/1358416997516644353)。

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大滝さんの書評は、『闇の自己啓発』に関しては特に「成長」を疑うこと、「既成集団でサバイブするための自己変革」の物語への批判を評価しています(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/79822?imp=0)。

とりわけ目を引くのは、かれらが大前提として通常の自己啓発本が絶対的正義として掲げる「成長」を疑っている点である。

この大滝さんの着眼については、私はそんなに的外れではないのではないか、と思います。『闇の自己啓発』著者の一人、ひでシスさんが、「自己啓発」と「闇の自己啓発」を対比する、面白い宣伝画像を作っていました(https://twitter.com/hidesys/status/1358800588528492547)。

※2021/02/12 14:51 下記画像はひでシスさんより画像を頂き、より適切なものへ差し替えたものである。感謝。本記事の文章はそのままとした。)(https://twitter.com/hidesys/status/1360102527954341891

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2枚の画像をみると、樋口さんの解釈とは異なり、普通に二項対立させております。また著者の一人である役所暁さんも、全文で「私たちは、いわゆる普通の自己啓発に対する防衛術として「闇の自己啓発」を生み出した。」(リンク)と、自己啓発に対抗しています。しかしこの点は不問とします。

より重要な問題があるのです。ひでシスさんの提示する対比が、実は機能していないことです。『闇の自己啓発』が成功すれば、著者や関係者には、次の仕事依頼も舞い込むことでしょう。著者たちは、出版ビジネス界隈において普通に"成長"するでしょう。物書きで「バリバリ稼げ」そうな感じはしませんが、代わりに作家には、普通の会社員にはない文化的名声、栄誉があります。まさに、組織を変えずに自分が変わります。

「自己啓発」と『闇の自己啓発』は、深層のレベルでは対立していないのです。アウトロー風芸能人が人気を博するのと似たようなものです。大滝さんが書評で批判する、「既成集団でサバイブするための自己変革(=組織を変えるのではなく自分を変えろ)」に他ならないものです。

従って、木澤さん・樋口さんが自分たちと同じような生きづらさを感じてる人への、共感なり承認欲求を打ち出したり。奇矯さ異常さによって「イケてる、イケてない」ってポーズを出すスタイルでは、本人の意図はどうであれ、資本主義に包摂されてしまいますよ。こうした人たちに出くわすたび、彼らは完全に"わかっていながら"振舞っているのか、無自覚なのか考え込んでしまいます。

当然、『闇の自己啓発』がどれだけ売れても、早川書房はなにも損害を受けません。むしろ元気になっていきます。何も変わりません。未来は続きます。「未来を破壊する」で提示された、樋口さんの破壊型カウンターカルチャー煽動のほうが、まだ騒乱を引き起こしうると言えます。先述した通り、実践すれば社会厚生を低下させる不合理なものなのですが。

関係者がそれでも「自己啓発」と『闇の自己啓発』に対立があると主張するならば、それは「コカコーラはペプシとは違う」、「瞑想とマインドフルネスは違う」、「LSDとストロングゼロは違う」という、通常の商品宣伝活動における「差別化」宣伝に過ぎないと言えます。

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樋口さんが書評で語る次の「破壊」もまた、単なる商品の差別化宣伝レトリックに過ぎない事になります。

『闇の自己啓発』とは、自己啓発の言葉を文字通りに実践することで、自己啓発の枠組みを、半ば自動的に破壊してしまった、過剰性の書物である。

「希少性」の節で論じたように、「異常マーケティング」が売る本は商品の一種に過ぎず、資本主義社会の制度を何ら変革できません。商品が売れて、関係者や会社が成長するのは当たり前過ぎるでしょう。

「おいおい、一体どこらへんで社会が要求する"生産性" "役立つ人間"への志向を拒絶しているんだい?」とツッコミたくなります。出版会社による"生産的であること"の要求に、著者らは順調に応えて、成果を出しつつあるからです。

樋口さんの文章に時折うかがえる、「自分は本当は生産的でありたくないけど、生産的になってしまう」といった感情はたぶん本心でしょう。しかし意図とは別に、生産的であることを容認する、効果的なエクスキューズになってしまっています。

本を読むことが、生き延びることに繋がる。こうしたメッセージに出版業界の誰もがニコニコ顔でしょう。それは消費を喚起し、本を増産し、企業を潤します。

このような矛盾をちくいち指摘する事がむしろ、真に「反資本主義」的な振る舞いでしょう。書いててもう大分面倒臭くなってきていますけどね。

10. 一種の「ステルスマーケティング」か?

これは一種の「ステルスマーケティング」と呼べるではないか?とふと思いました。

ステルスマーケティングとは、マーケティングの手法のうち、それが宣伝であると消費者に悟られないように宣伝を行うことである。(リンク

"反逆"という一見政治的なポーズをとる事で、「それが宣伝であると消費者に悟られないように宣伝を行う」ことができる。もし意図してやっているならば、巧妙です。「アウトロー風の芸能人」みたいなキャラクターだと分かりやすく示して貰えれば、腹は立たないんですけどね。

ただのステマで実害は少ないけど、企業が何か売りたいときこんな騒動・仕掛けがこれからも繰り返されるならば、うんざりですね。

11. (2)生半可な異常性では、資本主義社会を壊せない。

異常性は、商品になってしまう。だから生半可な異常性では、資本主義社会を壊せない。

仮に『闇の自己啓発』のせいで早川書房が倒産でもしない限り、「異常性が資本主義批判になる」という類の主張は、もはや真面目に受け取れません。本が売れれば売れるほど、関係者も企業も世俗的に潤い、成長してしまうのですから。『闇の自己啓発』が「強いもの」「権力」を凋落させる事はありません。読者が楽しく過ごす余暇を提供する「商品」に留まる事でしょう。多様な生き方を示す商品は消費社会の魅力を上げて、人々を従順にし、資本主義の維持や経済成長に貢献します。

それでは、本物の反逆、破壊的な異常性とは一体どういったものなのでしょう。LSDで読者が逮捕されれば、それは自己破壊的ですが資本主義批判としては弱い。

わかりやすく資本主義を攻撃した人物に、ユナボマーことセオドア・カジンスキーがいます。かれは産業文明が、人々に偽りの仕事、偽りの満足を与えて飼い慣らしている。そのため人間は本来の自分を見失っている。そう考えて、1970~1990年代にかけて連続爆弾テロを実行しました。ターゲットは、カジンスキーが現代産業社会を担っていると目した、科学技術の関係者たちです。

歴史を振り返ると、カウンターカルチャーやオルタナカルチャーに共感する人は、それぞれ別人なのに、時に驚くほど似たような事を主張します。「人間は抑圧されている」「息苦しい」「自由が蝕まれている」「社会適応が難しい」「それは資本主義のせいだ」。あなたはそう考えます。ユナボマーもそう考えました。

人間の自由が蝕まれていくのは、産業社会である以上は自然なことである。なぜなら「その体制が機能するためには、人間の行動は厳しく制限されなければならない」からだ。[中略]産業社会に反旗を翻す人間のなすべきことは「社会にストレスと不安定さ」をもたらすとともに、「テクノロジーに対抗するイデオロギー」、カウンターとなる理想の位置に自然を掲げるイデオロギーの広報に努めて「熱狂的な支持を集め」ることである。(ユナボマー

現代の有名な文筆家が書いていても、おかしくない文章ですね。しかしユナボマー=カジンスキーはガチでした。森の中の山小屋に何年も住まい、身体は煤で汚れ、孤独でした。

確かに、科学者を殺したり生産設備を破壊すれば、直接的に資本主義にダメージを与える事ができます。ユナボマーは悪人だけど手段と目的の関係に筋が通っており、率直で、「あまりに異常すぎた」と言えます。

12. 結論:さようなら、いままで反逆をありがとう

『闇の自己啓発』を読んで、自分を許すための枠を広げること。言い換えると「癒し」となること。その点に全く異論はありません。でもそれはごく"普通"のメインカルチャーでも提供する機能です。大きな違いは、異常者マーケティングがうざいか否かだけです。

13. 最後に

異常者マーケティングうざーーーーーー


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