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『セメント樽の中の手紙』 考察

私の好きな短編です。以下持論を「徒然なるままに」書き連ねようと思います。小説自体はとても短いので、ぜひ一度お読みになって、皆さんも考察にご参加ください(読まれたほうが、本記事をお楽しみいただけると思います)。

葉山嘉樹『セメント樽の中の手紙』↓
https://www.aozora.gr.jp/cards/000031/files/228_21664.html

また、念のため付言しておきますが、私は特定の政治、経済思想を礼賛するために本記事を書いたわけではありません。

物語の要約

主人公の松戸与三はセメント工場で働いている。業務中、セメント樽の中から小箱を見つけ、そこに入っていた手紙を読み、一人の労働者の凄惨な死と、それに苦しむ女工(手紙の送り主)の心中を察する。

本作に登場するものの役割

「セメント」の役割


本作における「セメント」の役割は、まさに”読者という船が下る川”であると考えます。どういうことか。

  1. セメント工場の工程においては、女工の仕事が主人公のそれより相対的に上流であり、主人公は下流。

  2. 女中の手紙の中で、セメントは上流階級の人間の使う施設に用いられることが記されています。よって、セメントが作られ、それが利用されるまでの過程を考えると、まさにセメントにかかわる人の経済的階級が、下流→上流、となる構図がわかります。

つまり「セメント」という題材を用いて、様々な人間の物語に縁と関連性を見出し、類比あるいは対比によって生まれるコントラストを読者に楽しませているのです(この場合、類比は1,対比は2についての評価となります)。読者は「セメント」という川を下る過程で、関係のなさそうな個人の物語を、川から見える同じ景色としてとらえることで、様々なことを考えるのです。恋人をクラッシャーで失った女、ジリ貧の日雇い工、劇場や大きな邸宅に出入りする資本家、、、。

恵那山の情景描写の役割

夕暗に聳(そびえる)恵那山(えなさん)は真っ白に雪を被っていた。汗ばんだ体は、急に凍えるように冷たさを感じ始めた。彼の通る足下では木曾川の水が白く泡を噛んで、吠えていた。

「自然の生理作用」とともに、主人公の身体が自然と同じ空気を共有し呼応している、非常に有機的な描写です。

もっとも、このシーンより前には、彼は機械の一部となりきり、馬車馬のように作業をしていました。その時の描写がこれ。

頭の毛と、鼻の下は、セメントで灰色に蔽おおわれていた。

鉄筋コンクリートのように、鼻毛をしゃちこばらせている

「だが待てよ。セメント樽から箱が出るって法はねえぞ」

セメントに覆われた顔は、まさに工場の機械と同化していそうです。また、鼻毛という体の一部を「鉄筋コンクリート」という人工物にたとえています。そしてすべてを「法」つまり決まり事のように解釈しそうになる主人公(ここでいう「法」とはⅼawではなくreasonであって、そういう読み方はおかしい、ということもできるでしょうが)。この時は彼の肉体を含め、すべてが無機的に描写されているように見えます。

つまり、ここでも対比的な表現を用いているわけです。

しかしこの表現の役割はそれだけに収まりません。業務中は鼻先のコンクリートをとるという簡単な欲求さえ満たせなかった主人公が、業務を終え、「無機物」からやっと「有機物」になることができました。こういう状況をセッティングさせておいてこそ、そのあとのセリフで、主人公が本心を表すことができるというものですし、メタいことをいえば、それをそういうものとして読者に訴えることができるのです。つまり、恵那山の情景描写は起承転結の転換点であり、主人公という人間にズームインするための下準備ともいえましょう。

破砕機(クラッシャー)

これはありていな指摘になってしまうかもしれませんが、本作を読む限り、Nセメント会社で使われてるクラッシャーの構造について、おおまか3つ指摘できます。

  1. おそらく漏斗のようなところに石が敷き詰められていて、底の石から順番に破砕されてゆく。つまり石のプールがある。

  2. 一旦破砕された石がコンベアに運ばれてくる。おそらくここで異物を取り除く。

  3. その後パチンコ玉のようなものでさらに粉砕し、焼いて成型する。

女工の恋人は、破砕される直前、石のプールにおぼれ、一切の光を見ることなく、粉塵と埃にまみれながら死んでいったことでしょう。そして、これは手紙からも明らかですが、女工はベルトコンベアで、恋人の肉体と最後の接見を果たすことになります(おそらくそのとき、女工はすかさず「仕事着の裂(きれ)」を拾ったのでしょう)。しかしまもなく、その肉体は跡形もなくなってしまうのです。

この手紙の叙述の趣旨は4つあろうと思います。

  1. 女工の恋人が最後(期)まで「無機物」であった(ここでも主人公との対比)ということを表現する。

  2. またそのさまがあまりに残酷で切実であるため、読者をひきつけ感情移入を促進する。

  3. まさに女工の恋人は、あとかたもなく「資本主義」(工場を資本主義の象徴とすれば)に飲み込まれてしまったということを表現する。

  4. 鼻どころか命を犠牲にした実例を主人公に突き付けること。


「彼は、細君の大きな腹の中に七人目の子供を見た」という一文の役割 1

彼(主人公)は、細君の大きな腹の中に七人目の子供を見た。

本作において、子供や家庭は主人公にとって邪魔な存在として登場しているようです。それは、文中から簡単に読むことができます。

「チェッ! やり切れねえなあ、嬶(かかあ)は又腹を膨ふくらかしやがったし、……」
彼はウヨウヨしている子供のことや、又此寒さを目がけて産まれる子供のことや、滅茶苦茶に産む嬶の事を考えると、全くがっかりしてしまった。

松戸与三は、湧きかえるような、子供たちの騒ぎを身の廻りに覚えた。

 彼は手紙の終りにある住所と名前を見ながら、茶碗に注いであった酒をぐっと一息に呻あおった。

嫌なものでも流してしまおうか、というようにイッキ呑みをする。

それは、純粋に生活を苦しくしている元凶であると考えているからでしょう。以下の引用文からも、「食われて」「べらぼうめ」といったように、主人公は、自分の経済的自由は家庭が奪っていると考えているようです。

「一円九十銭の日当の中から、日に、五十銭の米を二升食われて、九十銭で着たり、住んだり、箆棒奴(べらぼうめ)! どうして飲めるんだい!」

自暴自棄になって本心でもない(あるいは事実ではない)ことを言っているだけだ、ということも考えられなくはないですが、その程度の愚痴にしてはそれなりに定量的な指摘ですし、このセリフを言ったときはまだ主人公は酒を飲んでいませんから、そう片づけてしまうのはもったいない気がします。

そうであれば、主人公の見た「七人目の子供」とは、酒に酔う、という刹那の娯楽に興じる中、かろうじて認識した「現実」そのものであるといえるでしょう。また、主人公は「大きな」お腹をみたわけですから、なんといいましょうか、「相当現実的な現実」ということができます。そしてその「現実」は、まさにセメント樽の中の手紙に書かれていたもうひとつの「現実」とリンクし、主人公にとって相当な心の重みとなったことでしょう。

「彼は、細君の大きな腹の中に七人目の子供を見た」という一文の役割 2

考えてみると、主人公はすでに「何もかもをぶち壊」しているといった意味ともとらえられるでしょうか。
つまり、子どもは、男側の意志なしには勝手に生まれない(逆に言えば、残念ながら、女性の意思とは関係なく生まれてしまうケースは存在しますよね)のですから、まさに暴れ終わった結果として、「七人目の子供」がある、と考えることもできるでしょう。

傍論(他の評釈に対する私の「感想」)

「七人目の子供」の一文について、「主人公の家庭への愛を表している」と解するwebの評釈を目にしたことがありますが、私は賛成できません。なぜなら、そのように解すると

(再) 「チェッ! やり切れねえなあ、嬶かかあは又腹を膨ふくらかしやがったし、……」

という主人公自身のセリフと明らかに矛盾するからです。

また、これを葛藤と評価することは難しいと思います。なぜなら、葛藤というのは、一つの物事を違う位相から観察したときに起こる「一見」矛盾した感想をさすのであり、結果としてそれは矛盾するものではなく、両立するものであるからです。
葛藤の代表例として、たとえば子の独り立ちを見守る母の心情が挙げられるでしょう。つまり、「子の教育者という立場からはうれしいことではあるが、母という血縁者としての立場からみれば自分から遠ざかっていくことが悲しい」というものですが、これは「教育者」と「母」という違う立場から抱くそれぞれの感想であり、相互に矛盾しないもで、両立します。

そして何より、本作の主人公は、一時でも「父親」になったでしょうか。主人公の属性変化は、あるとすれば「無機質な労働者」→「酒呑み男」というものだけであると思います。葛藤は抱いていないでしょう。

メタい話をすれば、主人公のような単純な男に葛藤という複雑な心境を抱かせるのは、設定としてあまりに非現実的です。とても名作とは言えない仕上がりになってしまいます。

7人目の子供は「期待」として描かれているという評釈も目にしましたが、主人公のような状況下で、7人目の子供(1人目の子供ならまだしも、主人公にとってかなり同質化したイベントである)に希望を抱く人は地球上70億人をあたってもおそらく皆無でしょう。また、「期待」でないにしても、このラストシーンでいきなりプラス方向に心境変化があったとするのは、あまりに根拠不足ですし、「子供=希望」ととらえる杓子定規的解釈だとおもいます。

本作の要旨

へべれげになって暴れたい主人公

主人公は「左官屋さん」でもなければ「建築屋さん」(女工の手紙参照)でもない、「セメントあけ」として生計をつないでいます。とても仕事といえる仕事ではありませんから、おそらく雇い主に文句の言える立場ではありません。そして、上記の通り、家庭は主人公の憩いの場ではなく、経済的余裕を奪い続ける装置です。
考えるに、主人公は家庭にも職場にも一切の逃げ場がないわけです。そうすると、この主人公のセリフの意味も自然とわかってきます。

「へべれけに酔っ払いてえなあ。そうして何もかもぶち壊して見てえなあ」

左翼思想の観点から

上記のセリフ。「何もかも」を壊した先に自分の自由がある。あるいは「何もかも」を壊さなければ自由は得られない。ということなのでしょう。まさに「革命的」なタッチです。
そして、革命に必要なものは、「団結」です。そうするとこの一文も「ただ胸の内を共有したい仲間が欲しい」ということ以上の意味を含んでいそうです。

あなたは労働者ですか、あなたが労働者だったら、私を可哀相かわいそうだと思って、お返事下さい。

お願いですからね。此(この)セメントを使った月日と、それから委くわしい所書と、どんな場所へ使ったかと、それにあなたのお名前も、御迷惑でなかったら、是非々々お知らせ下さいね。あなたも御用心なさいませ。さようなら。

そして、これがセメント樽の中、つまり労働者の生産物であり、本来資本家が独占している物の中に入っていたことそれ自体、パンチのきいた「皮肉」であると考えます。
つまり、「セメント樽の中の手紙」とは、女工によるささやかな抵抗運動、あるいはその試み意味したものであると考えます。


おわりに

経験則を用いながら、原文を根拠とする解釈をこころがけました。
気が向けばほかの短編の評釈や、簡単な記事なんかも書こうと思います(投稿頻度は意識していません)。


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