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【短編】酒場の福音

 酒場は私にとって不可解な空間であった。卓上には無数のグラス、使われていない取り皿、全く手の付けられない丼物。秩序立っているようで全く整理の行き届いていない荷物。壁際には多くの黒色のコートが掛り、ひとつの大きなベールとなっている。まったく行く先のない会話を横目に、私は何とかこの空間を解釈してやろうともがいていた。もっとも、そのような考え事も、まったく有用なものではなく、時間をただやり過ごすための手段にすぎない。

 ひと段落し、野外喫煙所に出た。冷たい冬の外気で身を洗う。しばらくしないうちに、軽率な自制心をもって私はまた話を聞きに戻った。依然として不可解はそこに存在し、また観察のしかたによってはそれは増大しているようにさえ思われた。まさに私は、この不可解な空間が発する北風にもまれていたのであり、それに対抗するため、自身の殻に閉じこもって、視界を極限まで狭め、とりあえずそこにいるのであった。

 スペースのない卓上に鍋が投入された。もう限界だと感じたその時、それは突然やってきた。

「おとりわけしましょうか?」
先ほどまで不可解の一部を構成していた馴染みの佳子が、私のそばにきて言葉をかけた。

 私は普段から人に対して愛想のないところがあり、自身でもそれを半ば自覚している。彼女はそんな私に対しても懇切丁寧に接してくれる。不可解の”粋”と”情”を先ほどまで吸収していた天使が私のもとに降り、酒場ノリの再分配を試みている。否。それはまさに純白な気遣いであった。佳子のそれは、まるで道端で延びをしている猫をほおっておいてやるというくらいに何気なくそれでいて穏やかで、また、突然さしてきた晴れ間を眩しがるようなごく自然な反射ですらあった。
 同時に私は、軽い大きな布で体を覆われたような感覚になった。その布は、厚手の毛布というほどに頼り甲斐のあるものではないものの、確実に私の全身を包み、遅効性の仄かな温かみと安心感を与えてくれた。
 気遣いというのも、大なり小なり労力の消費を伴う。彼女の行為はあまりに飾り気がなく、また周囲への認識を全く必要としていないように見えた。まさに、自身の労を私によって最悪踏み倒されようが問題ないというような何か毅然としたものを感じ取ることすらできる。

「ありがとう」
直近まで考えたふりをすることのみに全力を注いでいた私は、貧相な受け答えしかできなかった。佳子は具材をバランスよくと取り皿に乗せ、私の正面にそれを置いた。私には、そのとき彼女が少し微笑みかけてくれているように見えた。

 しばらくしないうちに、佳子はまた不可解の一部となっていた。彼女が“こちら側”に属する人間でないのは確かであった。私はそっと箸を持ち、おもむろにキャベツを口に運んだ。ほのかな甘みと絶妙な塩加減が、いまにも乾き切りそうだった酸性の口に花をそえた。私は噛まずにそれを飲み込んだ。

私に異動の内示が出たのは、この2日後だった。まもなく春になる。

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