見出し画像

「宗教」っていうと敬遠されるかもしれないけど。。。

政治家が暗殺されるというショッキングなニュースを受けて、犯行の引き金となったとされる宗教団体とその活動に注目が集まるようになった。そんな中、先日床屋で散髪をしながら、若い店員さんとこの事件について話をしていると、「やっぱ宗教って恐ろしいですね~」とその店員さんがしみじみ漏らしていた。
僕の実家がお寺だということは伏せておきながら、はてさて「宗教って厄介なものなのか?」と、加えて社会一般では通念的に宗教全体が厄介者扱いされているのかと考えてしまった。
現代社会の日本では、宗教の存在感と役割はどんどん縮小している。市井の年中行事としてお付き合いのあった神社やお寺さんとはお祭りの中止などでどんどん縁が薄くなり、冠婚葬祭も簡素にやるのが当たり前になり、信仰の対象として、人生の道しるべとしての神仏の存在を教えは、やるせない現実社会の絶望感によって追いやられているように見える。そもそも日本人は良い意味でも悪い意味でも、宗教をふんわりと受け入れながら、強烈な信仰心やそれによって現れる行動からは一歩身を引く国民性を持っていた。それがこの事件などで、宗教に対する「積極的な拒否感」が増殖していく気がする。
翻って現代の世相をみると、今こそ宗教のような精神的拠り所が必要とされておかしくないのではと思ってしまう。現世には悲しく辛いことが多く、未来への希望を語る者はせせら笑われ、様々な事象の価値観が崩れ、「こうすれば幸せになれるよ」という屈託のない思いを語りそれに賛同できる人がいなくなった世の中で、何を信じて衆生は毎日を生きているのだろう?たまに若い人と会話をしていると「すべての現状をそのままに受け入れること」、「過度な希望を持たないこと」に全力を尽くし、現実の生活の中で夢を砕かれて自分の心が傷つかないように必死に心の殻を厚くしているような気がする。「たとえ酷い目にあったとしても、最初からそんなに期待してなかったからさ」みたいな感じで。。。
生きることは冒険である。明日何が自分を待っているか分からない中で、好奇心とちょっと悪戯好きな気持ちを持って、ワクワクしながら明日を迎えられなければ、ただ惰性で生きているだけで、そんな人生に人生たる魂は存在しない。特に若い人達が「斜に構えた諦観」で人生を見ているなら、この世に未来はない。
そういう世界で、「お前ら気合入れろよ!こうやって頑張ればなんか楽しい生活が待ってるかもよ!俺もよくわかんないけどこんなことを信じてやってみたら、なんかうまくいったからさ。お前らもやってみろよ!」というのが宗教である。
だってこんなせちがらい世の中じゃ、観音様にでもすがらなきゃ救われるものも救われないでしょ?