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生と死を科学する

こんにちは、イトーです。
先週何週目かの誕生日を迎えました。まだ子供で、モラトリアム中と思っていましたが、いつの間にか頭の固い大人になってしまいました。日本の古代~中世であれば平均寿命レベルです。

でも、そもそもそのような時代では、事故死、病死、戦死がほとんどで、寿命をまっとうできなかった方が多かったようにも思います。とはいえ、現代では人の寿命は80歳以上となっていますが、古代、中世、近代では、上記突発的な死を除いても、寿命はもっと短かったと予想されます。

そもそも、寿命とはいったい何でしょうか?今回のNoteでは、この哲学的な問いに、科学的な観点から解き明かしていきたいと思います。

果たして寿命って何なんだ?

寿命とは、生物の生命が存続する時間の長さ、として定義されます。転じて、ものが壊れずに動き続ける期間を指す言葉ともなりました。

では生命の存続とは何でしょうか?これは古代エジプトやギリシャの時代から続いてきた心理学的・哲学的な人類永遠の問いです。

古代エジプトでは、人が死ぬとバー(魂)とカー(霊)が体から離れて、肉体は不動となりますが、「バーとカーがが生き続ければ永遠の命を得られる」、と考えられていました。また死後も生命を保つことができると信じられていましたが、そのためには墓に供物が備えられている必要がありました。それはバーとカーが、肉体を依り代として、供物を取り込み活動の原資とするためです。その為、バーとカーの寝台である肉体を不滅とするために、ミイラ化の技術が磨かれてきたのです。

一方で、古代ギリシャで魂はプシュケーと呼ばれていました。プシュケーとはもともと息のことを指す単語でしたが、人が死ねば呼吸が失われます。その為に、言葉が転じて魂という意味を持つようになりました。そして、ソクラテスの弟子プラトンは、滅びる宿命の肉体を超えた感覚とを説き、朽ちる運命にある肉体とは対照的に、「知に従い肉体を動かすプシュケーは不滅である」と断じました。

またアリストテレスは、プシュケーが、自己や種を保つための自己保存を目的とした機能の一つであり、栄養摂取、知覚、理性等の複数の階層から構成されており、プシュケーの在り方や階層は、動物の種類によって異なると説明しました。

このように、古代から、命の可/不滅について、「肉体の存続」と「魂の存続」の2つの階層があると見なされ、永遠の命=魂の不滅性という文脈で語られてきました。これは、すなわち肉体を動かすという物質依存的な、”運動"という機能と、非物質的な知性・理性・感情などの "心理" という機能が、生物の活動を規定する構成要素であることに起因していると考えられます。

死の定義~肉体と魂~

さて、科学・生物学的に言えば、魂の存在は立証されていません。

1900年頃、アメリカでダンカン・マクドゥーガルと言う医師が、魂の存在を立証しようとしました。彼は、医師として患者を看取り続ける中で、魂に重さがあるか気になり、死ぬ間際の末期患者をベッドごと天秤測りに結び付け、死の前後の体重変化を計測しました。結果として、死の前後に約21gの体重変化を観測し、彼は「魂の重さは21gである」と結論付けました。

しかし、オーガスタスPクラークという別の医師により、「人間は死ぬ瞬間に体温が急激に上がり発汗する。その発汗量が21gである」ことを指摘され、魂21g説はすぐに否定されました。

ダンカン医師は、犬の死の前後での体重を測り、変化が無かったことから犬には魂は無い、と断じていますが、これは犬は舌でしか発汗できないため、死ぬ瞬間に口を閉じると発汗による体重減少が起きない為であると、説明できます。

ダンカン医師のように魂の存在を立証しようと考える科学者はたくさんいますが、実現できていません。生物学的に言えば、魂とは、神経細胞による情報伝達の束に過ぎませんが、どのようなメカニズムで、ここまで複雑な思考や感情が実現しているかは究明されていません。

生物は、たった一つの細胞から発し、細胞が増殖し、ネットワークを形成していくことで、先に述べた運動機能と心理機能が成立していきます。

しかし、この細胞の動きと魂のどちらが先に成立し、他方を統制しているかは不明です。細胞は、Self-organize:自己組織化という特徴を持っており、あたかも意思を持っているかのように、自由にふるまいます。厳密にいえば、自由というよりも、肉体を構成し、存続させ、繁殖する、という生物の大目的に従って行動します。

したがって、魂と肉体(細胞)どちらが先かは、古代から現代まで何千年もたっているにも関わらず、理解できないままです。

肉体が滅すれば、運動性という機能は失われ、個体は消滅するので、まだ生きている私たちからは完全に死んだ(生命の存続性が損なわれた)と思えますが、しかし、魂が存続しているのか、それとも肉体と同時に消滅してしまったのかはわかりません。

反対に、肉体は存続しているが、魂が滅してしまった又は肉体と魂の連携性が失われる現象も多々あります。例えば、脳死がその代表例です。肉体という物理的個体や生命活動という運動性は存続しているにもかかわらず、知性・理性・感情という心理つまり魂が存続しているのか、消滅してしまったのかは、他人からはわかりません。

不老不死は成立するか?

このように、死とは多義的です。
その為に、不老不死という概念は、そもそも生命と死の定義によって、その目的や成立手段が異なってきます。

仮に魂の不老不死を実現しようとすれば、魂を科学的に究明し、その状態をモニタリングする技術を成立させなければ、決して魂の可/不滅性と転じて不老不死を証明する事ができません。

一方で、肉体の不老不死を考えてみます。肉体の不老不死を実現したとしても、魂が損なわれれば生命を維持する事はできません。では、肉体の不老不死=魂の損耗を抑えることができる、と考えてよいでしょうか?

例えば、これまでいろいろと議論してきたような、再生医療技術によって、常に若くて高機能な細胞を肉体へ供給し続ければ、常に若く・元気でいられて、永遠に生命が存続すると考えられるでしょうか?

生物学的に言えば、老いとはゲノム損耗による細胞の摩耗であると考えられています。UVや過酸化酸素、化学物質など、私たちは生物にとって有害な現象に常にさらされており、これにより細胞の設計図であるゲノムが傷つき、細胞も機能を低下させていく=老化すると理解されています。

なので、理論的に言えば、傷ついた細胞を、常に元気な細胞に入れ替え続ければ、肉体的な老いも死も存在しないと思えます。しかし、全身の細胞を入れ替え切った私たちは、かつての自分と同じ自分だと断言できるでしょうか?

不老不死の議論に限らないのですが、意識の連続性はあろうども、細胞自体は通常の状態でも4週間から4年間で完全に入れ替わっているといわれます。仮に、先に述べたように、魂とは細胞の情報伝達の束であると定義した場合、細胞を完全に入れ替えた場合、魂の状態は不変であり続けることは、おそらくできません。

この考えに基づくと、今日の自分と明日の自分、かつての自分と数年後の自分は全く違う肉体と魂の状態となっているはずです。したがって、この魂の変化が、不健全な方向へ逸れないように、コントロールしたりメンテナンスする事は必須でしょう。

つまり、肉体としての不老不死を手に入れたとしても、結局、魂としての健全性・不滅性を担保する事ができなければ、生命としての不老不死は達成できないだろうと、ぼくは考えます。

なので、たぶん、今の科学の延長線上では肉体としての不老不死は、遠くない未来で達成できるでしょう。しかし、至上命題である生命としての不老不死を達成するためには、魂の存在を立証し、コントロールする術を手に入れる必要がある。したがって、肉体と魂を両にらみで制御する、それが成立して初めて、真に生物が死を克服できると推測します。

まあつまり、肉体側の理解は進んでるけど、魂側は全然わかっていないので、不老不死の達成は、まだまだ先かな、ということを言いたかっただけです。

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さて、今回は、寿命や死という良く議論されますが、曖昧にイメージされている、しかし生物として最も重要なトピックについて扱ってきました。禁忌的な部分もありますが、もしコメント・ご質問あればいただければ、できる範囲でお答えしていきたいと思います!(決して宗教的なものではありません!笑)

こちらの内容はPodcastでも語っています。こちらの方がライト向けです。
ご興味あれば足をお運びください!次回は2/21月に配信予定です!!
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