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赤信号はちょっと注意して進め、と父に教えられた話

青は進め、
黄色も進め、
赤はちょっと注意して進め。

それが父の最初の教えだ。

1868年に世界初の信号機導入から1世紀、
1930年に日本に信号機導入から半世紀、
世界各国の交通法と教育は必ず
「青は進んでもよい、赤は止まれ」
と伝えていたことだろう。

赤で進むのは闘牛か野蛮人ぐらいのものだ。

ところが、齢5歳のわたしに父が教えたのは前述の通り、
「赤はちょっと注意して進め」だった。

それが間違いだということは、5歳のわたしにもわかっていた。
ドラえもんも、
アンパンマンも、
キティちゃんも、
憧れのヒーローたちは、悪者を捕まえては口を揃えて「赤信号は止まらなきゃダメだよ!」と怒っていた。

小学校のなんちゃってお受験を控えていたので、幼稚園でも口酸っぱく教え込まれていた。

しかし子供というのは、
(否、すべての人間は、)
ルールと常識を破るのが大好きだ。

当時のわたしも、そりゃもう父の甘い誘惑にジャンプしながら飛びついた。
「ほんと?ほんとにほんと?赤信号渡っていいん?」
おじいちゃんに「お母さんに内緒でアイス食べよか」と言われるときぐらい興奮して、声をひそめて、なんども父に繰り返し尋ねた。『やっぱりダメ』って言われるんじゃないか、ドキドキもしていた。
けれどわたしの高ぶりなんて跳ね除けて、父は鷹揚に頷いた。

「ただし、」と父は続ける。

–––右を見て、
     左を見て、
     前の車のウインカーを見て、
     後ろの車が居眠りしてないか見て、
     それでもう一度ぐるりと右を見て、
–––危なくないと自分で判断できたら、
–––赤信号でも青信号でも渡ってえぇよ。

それはなんだか、謎かけのようで、
むずかしい条件を提示されたようで、
釈然としなかった。

「なぁんだ。結局、ダメってことやん。」

ガッカリ。
もうかなり、ガッカリ。『アイスやっぱりやめよか』より数段上のガッカリだ。「ちぇっ」と舌打ちだってしたかもしれない。

だけど父はそれ以降も、
赤信号に引っ掛かるたび同じことを言った。

「青は進め、
 黄色も進め、
 赤はちょっと注意して進めやで」


父に初めて殴られた日はよく覚えている。
宿題の答えを写したのがバレた日だ。
「みんな言ってるもん、できひんかったら写したらええんやでって」
「あほか!!赤信号みんなで渡ってどないすんねん!」
「赤信号はちょっと注意して渡れ言うてたやん!!」
「注意しろ言うたやろ、自分で考えもせず答え写していいと思ったんやったらお前は大馬鹿野郎や!!」
ポカリ。なんてもんじゃない。ドガン。
体脂肪1桁ムキムキマッチョな20代の父に殴られても吹っ飛ばなかったのは、控えめにいって手加減されていたし、確実に愛情だった。
大声で泣いたって、おばあちゃんもおじいちゃんも止めなかった。

悪いことしたんだ。
自分で考えて判断しなかったことも、
周りに流されたことも、
めちゃめちゃあかんことなんや。

泣きながら宿題を解いて、考えていたのは信号機のことばかりだった。


「青は進め、
 黄色も進め、
 赤はちょっと注意して進めやで」


ある日の給食の時間、班に混ぜてもらえずひとりで壁に向かって、もぐもぐ口を動かしていた。まずいご飯。まずいおかず。まわりは楽しそうなのに一人気まずい空気。苦痛の最中、とつぜん、ぞうきんのしぼり汁をバケツごと頭から掛けられた。びっくりして、かなしくて、ランドセルさえ置いて、ビショビショのまま小学校を飛び出した。家には、夜勤のために眠る父がいた。わたしが解錠した音にすわ、泥棒かと飛び起きてきた父は、ひどく驚いた顔をしていた。
父の握った塩おむすびに海苔を好きなだけ巻いて食べ、わたしがようやく泣き止んだころ、父は眠たいだろうに話を聞いてくれた。
「なぁ、なんでいじめられてるん」
「わからん。わからんけど、最初はSちゃんがいじめられててん。わたしもSちゃん好きじゃなかったけど、無視したり物隠したりするんはちゃうやん。やからいままでみたいに喋ってて、それで、、。」
「ふぅん」
「あとな、おわりの会の『嫌なこと発表』で、わたし毎日立たされて、『謝ってください』て言われても謝らへんことあってん。自分が間違ってないと思ったときだけやで。でも立たされたひとが謝らへんと、いつまでも帰られへんから、みんな怒っててな。だんだんなんかな、おわりの会以外でもいつもみんな怒ってるようになってな、、…あとはわからん。」
「どこに逃げても、またいじめられるかもしれへんで。」
「うん…。でもな、いまは逃げたいねん。」
「そうか。信号ない道もあるからな、自分で考えて、渡りたないと思ったんやったらしゃあないな。」
いじめの峠に、トラックが横切る瞬間の横断歩道で、背中を押されたことがある。渡りたくない道を渡る戦慄は、あの頃身をもって覚えた。
右を見て、左を見て、それでも足りなくて前と後ろを見て、自分で考えて渡る。
周りの勢いで渡らされるのは、死と隣り合わせだ。

「青は進め、
 黄色も進め、
 赤はちょっと注意して進めやで」


「友だちだってみんな同じ時間まで遊んでるんやで!!平日は怒らへんのに、仕事の手伝いでも怒らへんのに、なんで遊ぶときだけ怒るん!」
中学生。反抗期到来。
父は「むぅ」と考え込んでから、提案した。
「ほな門限じぶんで決めてみ。常識の範囲内で、この地域の条例に従って、校則に違反せず、オレが許せそうで、自分でもまぁまぁ納得できる時間を考えてみるんや」
「じゃあ20時」
「じゃあてなんや。根拠は。やり直し」
わたしの即答はバッサリ退けられた。
ルーズリーフに、『20時。部活帰りとおなじ時間だから』と書いて提出すると、「理由になってへんやんけ」とつき返された。
『23時。母の仕事の手伝いをする時間とおなじ。危険性は変わらないため。』と書くと、「お母さんたちと一緒におる22時までは安全やろ、心配なのは帰り道のラスト1時間だけ。友だちと遊んでくるときは1日中心配。危険性が同じなわけあるか」と鼻で笑われた。
『17時。日が暮れて危ないから。』には、「自分が納得できる時間にせぇ言うたやろ、オレの顔色伺ってどうするねん」と呆れられた。
3回、4回、同様のやり取りをしていれば父の言いたいことも次第に分かってくる。たぶん、2人の頭には信号機が浮かんでいた。少なくともわたしはそうだった。

–––右を見て、
    左を見て、
    前の車のウインカーを見て、
    後ろの車が居眠りしてないか見て、
    それでもう一度ぐるりと右を見て、
–––危なくないと自分で判断できたら、

赤信号で渡ってもいい根拠は、右にも左にも前にも後ろにも危険がないと確認できていて、かつ、自分が納得して進みたいと思っているからだ。

たしか結局、B5のルーズリーフ2枚にビッシリ、門限に関する約束事をまとめて、父の提案に応えたと思う。(約束を守れたかどうかは覚えてない)(守れなくてルーズリーフを父に破り捨てられた気もする)

赤信号を渡るのは簡単だ。
だけど、信号機を作って、信号機を世の中に拡めて、「青は渡ってもよい、赤は止まれ」というルールを浸透させるのは骨が折れる。ルールを作るのは、想像よりも大変だ。
だから赤信号を渡るなら渡るだけの根拠が必要なのだ。

「青は進め、
 黄色も進め、
 赤はちょっと注意して進めやで」

「なにしに大学行くん、みんな行くから行きたいと思ってるだけちゃうんか」
高校卒業が差し迫る頃、父は怪訝な顔をして、ときには般若の顔をして、同じことを繰り返した。
勉強したいことがあるねん。
やりたい仕事があるねん。
夢のために必要やねん。
説きつけても説きつけても、翌日には同じ問いを投げかけられた。何度倒しても襲ってくるゾンビよりしつこかった。
「なぁ、みんなが渡ってるからって、青信号は安全でもなんでもないんやで」
しかもうちのゾンビは喋る。
意思を持って喋りまくる。
数年ぶりに信号機の話まで持ち出して。
「大学生なんて遊んでばっかりなんやから」
「そんな古い偏見で喋らんといて。お父さんこそ、信号も見んと噂だけで歩くつもりなん」
負けじと信号機を思い浮かべた。

だれも信号なんて見ていない。最初のひとりが横断歩道で足踏みを始め、偏見で塗り固めた色眼鏡で見えない信号を青だと決めつける。「青だ!」とどこからか声がすると、一斉に周りが進んでいく。歩行者だけじゃない、自転車も、車も、自分で信号を確認せずに噂の声に従って突き進む。青信号、みんなで渡れば怖くない。だってだれかが青信号だって言ったから。

父は最後の夜、「いつでも引き返していいんやで」とつぶやいた。

青でも、黄色でも、赤でも。
危ないと思ったら、
いつでも引き返して帰っておいで。

コクリと頷くのが精一杯だった。

「青は進め、
 黄色も進め、
 赤はちょっと注意して進めやで」


そうして今日もわたしは、
赤信号をちょっと注意して進む。

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