箱の中の犬の話-上

☆☆☆ あなたの中に存在する人と犬と猫と

その他沢山のものへ、この物語を贈ります 

山下月子 ☆☆☆


大きな温かな手を思い出していた。温かくていつも撫でてくれた優しい人間の手だった。その手がある日僕の体をすっぽり包んで、少しだけ宙に止まった。僕はすっかり安心して暖かさに包まれていたが、やがてこの暗い箱の中に下ろされて、それから僕はここにいるんだ。

箱の中は真っ暗だ。だから僕は何も見えない。どこからか漂ってくる匂いを嗅ぐと、あの人間が近くにいることがわかる。僕はこの人間とおなじところで一緒に暮らしていたはずだが、なぜか今、箱の中にしまわれてしまった。

人間と一緒に散歩をしたり、遊んだりしたことを思い出す。人間は僕のことを忘れてしまったのかと思うけれど、そうではないみたいだ。

時々蓋が開いて、上から手が降りてきて、ご飯をもらうことができる。手が僕の頭を撫でることがある。上を見上げると人間はそこにいる。でもただそれだけだ。人間には僕が見えてるのかな。それとも、見えていないのかな。

僕は外の世界で人間の顔を見るのが好きだった。僕たちは一緒にいて、走ったり転がったりして遊んだ。僕が走ると人間は追いかけてきたし、人間が走るとぼくも一緒に走り出した。でも、ある時、人間は止まった。そして、僕を見なくなり、遊ばなくなり、この箱に入れてしまったんだ。

暗い箱の中で、僕は何か人間にとって悪いことをしたんだろうか?と考えた。僕はなんどもそのことを考えていたけれど、思い当たることは、なかったような、ありすぎてどれかわからないような気がする。目の前の真っ暗闇と同じように、それがほんとうにあるものなのか、夢なのか、わからなくなってしまった。

ぐるぐる考えているうちに、楽しかった日々のことが、夢だったようにも思えた。僕は捨て犬だったのかもしれない。そして、優しい手に拾われる夢を見ていただけで、初めからずっと、この箱の中にひとりでいて、生まれた時からここでご飯をもらって生きてきたのかもしれない。

たまに、蓋が開いて手が頭を撫でたとき、僕は噛み付いてぶら下がって、外に出ようとした。すると、突然、手は乱暴に僕を箱に叩きつけると、蓋をピシャリと閉めた。僕は真っ黒に閉じた箱の天井を眺めて、キューンと鳴いた。もう2度と手が来ないかもしれないと思ってもう一度キューンと鳴いた。

真っ暗な中で、僕はビクビクしているか、退屈しているかどちらかだ。蓋が開くと、手や顔がみえるけれど、優しい時ばかりではなくて、恐ろしく感じる時もある。僕はときどき眠りの中で怖い目に遭って、震えて闇の中で凍りつくような気持ちで目覚めることもあった。

今、近くで、ニャーという声がした。これは猫だ。箱の外に猫がいる。人間と一緒に住んでいる小さくて癇癪持ちのオレンジ色の猫。僕が箱に入ってからというもの、猫は部屋のどこでも歩き回っている。

僕が外にいた時、猫は僕を敬遠していつも遠巻きに見ていた。僕が向かっていくと、ふーっと怒ったので、放っておくことにしていた。しかし、今、猫は我が物顔なのだ。

猫とでも、話ができたらよかった。そうしたら、少しでも僕はここで、怯えていなくてすむし、退屈しないだろう。しかし、猫語はわからなかった。それに猫が僕に話しかけることは一度もなかった。

今日はこの箱の近くに猫の気配を感じる。ニャーン、ニャーンと鳴いている。何を言ってるのかさっぱりわからないが、どうもこちらに向かって鳴いているようだ。

(つづく)



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