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「怒りを捨てろ」と言われましても・・・ エペソ 4:24-32

今日はエペソ人の手紙の4章に書かれている著者から教会への勧め、命令が書かれています。この命令は、24節にある通り、「神にかたどり造られた新しい人を着」た私たちクリスチャンが身に着けるべき性質や避けるべき言動を示しています。
 
箇条書きにしてみますと、次のようになります。
 
·         隣人とは真実を話しなさい。(4:25)
·         怒っても、罪を犯してはならない。(4:26)
·         盗人は、もはや盗みをせず、自分の手で働き、困っている人々に分け与えるものを持つべきである。(4:28)
·         あなたがたの口からは、腐敗した言葉が出ないようにしなさい。(4:29)
·         神の聖霊を悲しませてはならない。(4:30)
·         恨み、叫び、中傷、悪意はすべて、あなたがたから離れ去りなさい。(4:31)
·         メシヤなる神があなたがたを赦してくださったように、互いに親切に赦し合いなさい。(4:32)

これを読んでみて、どうお感じになったでしょうか。「えええ、こんなこと私はできない!」と感じた方もいらっしゃるかもしれません。「特に何も感じない」という方もいらっしゃると思います。
聖書には私たちの感情についての命令が書かれています。テサロニケ人への手紙第一5章16節には、「いつも喜んでいなさい」と書かれています。もちろん「いつも喜ぶ」ことなどできません。パウロが何を考えて「いつも喜んでいなさい」と言ったのかはあまり定かではないようです。神学者、牧師、信徒たちは、「いつも喜んでいなさい」というフレーズからいろいろなことを考えてきました。

·         人間の努力だけでは、喜ぶことはできません。私たちの内におられるイエス・キリストの姿を見上げる時、喜びは本物の喜びなります。
·         私たちがこの世界で求める喜びは刹那的なものですが、キリストにある喜びは永遠のものです。
·         イエス様の十字架による罪のあがないが、私たちの喜びです。私たちに神の子とされる特権を与えてくださったことも、喜びです。

私もこのようなメッセージを聞きながらクリスチャンとして育ちました。なかなか理解が難しい解説だと思います。しかし、これらの言説から分かるのは、「喜び」を私たちの救いとの関係で定義づけているということです。でも、クリスチャンになったら、本当に喜べるのか、喜びに満ち溢れた人生になるのかというと疑問です。今日は「怒り」を取り上げたいとおもいます。まず「怒り」についてお話しして、「喜ぶ」ということもお話ししたいと思います。ただし、『どんな「怒り」なのか』とか『どんな「喜び」なのか』という話ではありません。

今日は「怒り」ということを考えながら、聖書の読み方や教会の在り方について話を進めていきたいと思います。26-27節を見てみましょう。

26 怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。
27 悪魔に機会を与えないようにしなさい。

エペソ人への手紙に限らず、新約聖書の中の手紙が書かれているのは、著者が問題を抱えている教会を励ましたり、ある問題に関しては、叱責をしたりと、著者と教会の間に共通の話題、課題があり、その解決を目指していたからです。今日は、「怒り」ということを扱いますが、著者はなぜ「怒り」を取り上げたのでしょうか。著者には、エペソの教会に「怒り」について書くなんらかの理由があるはずなのです。しかし、エペソ人への手紙の中からはその理由がわかりません。

そうすると、この箇所を読みながら、私たちは、このような結論を導くことになります。

·         「怒り」や「怒ること」は罪だ。
·         怒っても良いが、罪を犯してはいけない。

聖書にはイエス様が怒ったという個所もありますが、それでも怒ってはいけないのでしょう。私たちの怒りの原因など無関係に、とにかく「怒り」を封じる言説は、私たちの感情そのものを否定するものです。また、「怒り」を否定する言説は、次のような事態を引き起こします。

これは、アジアのある教会で起こった出来事です。ある女性がこのような「証し」をしました。彼女には気まぐれで不誠実な夫がいます。彼女は言いました。

「ある日私は夫とケンカをしました。夫は私に包丁を投げつけました。幸い包丁は当たりませんでした。しかし、私はこんなことをする夫に怒り、罪深い不従順に陥ってしまいました。」

彼女はこの経験を「神への、夫への従順を学ぶ機会となった」という証をしました。そして、彼女の証はその集会の中で大いに受け入れられました。26-27節のみことばを普遍的な真理として捉え、エペソ人への手紙が書かれた背景や人間の情緒を無視した教えの結果です。

この女性の人生はわかりません。しかし、彼女が自分の感情を否定し、「夫への従順」という教会の教えと社会の規範が優先されたということは分かります。いや、本当のところはその反対が無意識に行われているのかもしれません。つまり、「夫への従順」という教会の教えと社会の規範を達成するために、神が人間に与えられた豊かな情緒を否定しているのです。感情を否定されたこの女性は、いつ自分の人格を取り戻すことができるでしょうか?暴力も罪だが、夫への不従順も同じような罪だといえるでしょうか?
ある人はこの女性の証しを聞いて、「夫に対する怒りが、夫への不従順を生み出した」というかもしれません。エペソ人への手紙のある註解書にはこう書かれていました。

「怒りに対する賢明な対応は、怒りで日が沈まないようにすることである。正しい怒りであれ、そうでない怒りであれ、怒りが私たちの中で長引けば長引くほど、私たちを罪へと導く可能性が高くなる。」

この女性の怒りはどうすればおさまったでしょうか。彼女は神に、「夫への怒りがなくなりますように」と祈るべきだったでしょうか。

ここでテサロニケ人への手紙第一の「喜び」についてフレデリック・ブルースという神学者はこう言っています。

「キリストの共同体は小さな福祉国家であるべきであり、霊的な面でも物質的な面でも、メンバー間の相互の助け合いを実践する社会である。その交わりの中で、助けを必要とする人には必要な助けが与えられるべきである。クリスチャン生活は、絶え間ない喜び、祈り、感謝の内に送るものである。特に、信仰のゆえに迫害、嫌がらせを受けたり、社会的な排斥を受けたりしたときにはなおさらである。」

テサロニケの教会はなんらかの迫害に遭っていたようです。その中で「喜び」とは強制されるものではなく、教会の中で分かち合うものです。それは、「助け合い」であり「励まし」から生まれるものです。神の愛の実践から生み出されるものです。

これは「怒り」にもあてはまることです。エペソ人への手紙の著者には、「怒り」を止めさせるなんらかの理由があったのかもしれません。しかし、「怒り」は湧きあがります。夫に包丁を投げつけられた女性は怒ります。それは自然なことです。教会がすることは、私たちの怒りを抑え込むことではありません。テサロニケの教会と同じように、怒りを抱える人々の怒りに耳を傾け、理解し、ある時は励まし、慰めることが必要です。もちろん、その怒りが不当であることも伝える必要があるかもしれません。

私たちの「喜び」にしても、「怒り」にしても、教会を形成する私たちがどのように私たちの感情やその感情を引き起こす出来事に関わるのかということです。イエス様は私たちを、そしてご自身の被造物を罪と悪の世界から解放するために十字架に着きました。罪と悪を滅ぼし、それらによって引き起こされる私たちの死と苦しみを滅ぼされました。にもかかわらず、イエス様が再臨されるまで苦しみは続きます。

私たちがすることは、「怒り」を糾弾することではありません。罪と悪の世界で、絶望し、苦しみ、怒り、涙する人に、その声をあげる場所を提供する子です。それが教会です。そして、教会で、絶望し、苦しみ、怒りに耳を傾けることです。

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