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「JOKER」考察


大学が上野公園にあるので、
芸をする人をよくみる

民族楽器を演奏する人や、大道芸をする人
人だかりになっている時もあれば
そうでない時もある

あの人たちは何を信じているのか

立ち止まって見てしまうと、自分を投影してしまい、彼ら自身になってしまいそうな気がして怖いので、足をとめた事はない

ピエロの格好をしてる人は意外と少ないのだが、1人だけ見たことがある

暑い日に汗で白い化粧を滲ませて、一生懸命動いていた
くるくるの、長いとも短いとも言えない、ワックスのついた髪の毛がヘタって、顔の化粧が前髪に付いていた

ピエロという強い記号でありながら、紛れもなく生々しく、1人の人間だった

それにどうしようもなく胸がざわめいて、そこから一目散に逃げ出したくなったし、同時に駆け寄って抱きしめたくもなった


JOKERをみて、そんなことを思い出した。


[ここから考察、ネタバレ多し]



JOKERという映画は、「演じる」という事に関する物語だっと思う。
そのことをつらつらと考える。

1.JOKERになるということ
2.絶対的な悪、悲劇と喜劇
3.メタ・アクター
4.ホアキンフェニックスのキモさ



1.JOKERになるということ

人間はみんな何かを演じているから、社会と繋がっていられる。
私も、学生としての自分、家族の中の自分、日本人としての自分…自分を使い分けることで、社会のくくりに入り、居場所をみつけて生きている。

泣きながら笑っていた主人公アーサーは、ある意味、社会の一員としてのアーサーを演じていた。そしてピエロという自分以外の何者かを演じることで、社会と繋がり、居場所を得ていた。

負で循環するゴッサムシティの闇は、アーサーのような、社会の末端の日常に蓄積する。

誤って人を殺してしまうことで、アーサーは自分とはなにかを考えるようになった。

貧乏で障害者、社会に冷遇されるアーサーにとって、自分に優しく接してくれる存在は少ない。親はアーサーにとって唯一の生まれてきた意味であり、心の支えだった。
一回しか見ていないので、見逃しているのかもしれないが、劇中でアーサーの出生は断定されない。親というたったひとつの拠り所にすら、希望はなかった。自分は何を信じればよいのか。社会は何を信じているのか。
ありのままのアーサーでいるには、彼の人生はあまりに辛いものだった。
アーサーを人間の世界に繋ぎとめていた鎖の先は、どこにも繋がっていなかった。
母という鎖を断ち切ることで、彼は社会から解放された。
アーサーとして本当に笑える場所はこの世にないので、彼はアーサーを「演じる」ことをやめ、社会との繋がりを切り、ジョーカーになった。ただ本能のままに自由に、踊る。
生きる意味などない、善も悪もない、自分でいることにも意味はない。
ジョーカーは誰でもあるし、誰でもなくなった。 政治も金も人間も、信じられるものが何もないゴッサムシティで、ジョーカーというゆるぎない"意識"は自然に街に広がっていった。

(ピエロの仮面を被った男が市長を殺すシーンは、攻殻機動隊S.A.Tを思い出した…)



2.絶対的な悪、悲劇と喜劇

ジョーカーをつくりだすことで、アーサーの悲劇的な人生は虚構になった。彼の中でアーサーはアーサーという役を演じていただけにすぎなくなった。そしてジョーカーという存在そのものになることで、彼なりに喜劇の世界をつくりだした。
彼以外のピエロが仮面なのは、ピエロを「演じて」いるからだ。みんな、ジョーカーという''神"に救いを求める悲劇の登場人物達だ。
悲劇は物語に救われてしまうが、喜劇には救いなどいらない。自由に踊る悪に理由などない。彼が笑うための喜劇は彼にしか理解できない。だから、ジョーカーが絶対的な悪として成り立つ。そして絶対的な悪があるから、絶対的な善が生まれる。ダークナイトで語られ尽くした事ではあるが、バッドマンシリーズが面白いのは間違いなくジョーカーが完全悪だからだと思う。

喜劇と悲劇は表裏一体というように、
ジョーカーを完全悪にするための物語が、結果としてジョーカーを救ったようにも思える。
少なくとも私が彼について考えている時点で、ジョーカーがこの世に存在した意味はある。映画全体としては悲劇だが、彼のパースでは喜劇である。そして彼のパースで喜劇であることが、映画全体を悲劇にしている。
その構造が、物語に深みを与えている。
鶏も卵も先である。
難しい…



3.メタ・アクター

劇中、タクシードライバーやキングオブコメディなど、有名な映画のオマージュが出てくる。両作とも、現実と虚構の境目に迷い込んだ主人公が、狂気を孕んでいく姿を描いたものだ。そして両作の主人公を「演じる」ロバートデニーロがアーサーの精神的な父である人気コメディアン、マーレイ役を「演じ」ている。
この2つの物語をあえて感じさせ、その主人公を担った役者を映画に登場させることで、「演じる」という概念をメタ的に表していた。
映画全体としても、アーサーにとっても、ロバートデニーロとマーレイは、「演じる」ということの象徴だった。
番組という舞台の上で、銃というむき出しの本能によって彼を打ち殺すことで、ジョーカーは社会的に社会との繋がりを断つ。そしてジョーカーという存在を確かなものにする。
そしてマーレイが死ぬことで、映画のキャラクターがロバートデニーロという現実世界の役者と繋がる。
あそこでマーレイか死ななければ、2作はただのオマージュにすぎなかったが、マーレイが死んだことで、ジョーカーは物語的にもメタ的にも「演じる」ということの否定をしたんだと思う。2作はオマージュとして印象深いが、ジョーカーはその2つの主人公とは違う。マーレイを殺すことで妄想の世界の憧れを完全に否定した。ジョーカーの闇、ゴッサムシティの闇は妄想などではない。 ゴッサムシティから滲み出た悪は、ゴッサムシティだから踊るのだ。ジョーカーは誰にも左右されない、間違いなく唯一無二の悪である。そうあるべきかは別として、何かを「演じる」ということを無責任にやってはいけないと思った。昨今のSNS社会は、無責任な「演じ」の塊だと思う。私たちは、本当の、生身の自分にもう少しだけ、目を向けてもよいのではないか。「演じる」ことをやめて、ジョーカーのようになるべきとは思はないが、

「あなたは何を演じていますか?」

映画にそう言われたような気になった。



4.ホアキンフェニックスのキモさ

家での自分、大学での自分、働くときの自分、好きな人の前での自分…どれが本当の自分か分からなくて、そもそも本物の自分なんていないような気がして、不安になる時がある。
だから変わらず信じられるものを探すけど、実際変わらないものなんてない。愛も、地球も、神様も、自分も、絶対的なものなんてないのが現実だ。
現実と虚構の間に境はない。どちらも本物だし、どちらも嘘だ。でもその境目を探す行為に、変わらない何かがある気がする。その境目をなんとか探そうとしているのが、「芸」なんだと思う。
そういう意味で、主演のホアキンフェニックスにも、感銘を受けた。
アーサーとしての彼は、とっても生々しく、気持ち悪かった。服を着ない生身のシーンが印象的で、彼のいびつな動きは、身体的でリアルであると同時に悪魔のようなおぞましさがあった。
我々と同じ身体であるはずなのに、生身を強く見せつけられるほど違う生き物にみえた。

冒頭、長い尺を使ってアーサーの笑いを見せられたことで、アーサーが自分に染み込んだ気がした。
今おもえば、映画の第一印象がホアキンフェニックスの演技の上手さだったのは、映画全体の構造を最初に表現していたように思える。


以上、自分の頭を整理するために書いてみた。



私が上野公園のピエロを見て胸が騒ついたのは、何かを一生懸命演じても、どうしても拭えない孤独を感じたからだとおもう。
ピエロの顔が泣いているようにも笑っているようにも見えるのは、自分を重ねているからだ。


暗い。



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