隼雄っちに学ぶ、闇とたましいの話。
河合隼雄先生。
「隼雄っち」なんて、軽々しく呼び捨てにしてしまい、すみません。
お会いしたこともないのに、なんて失礼なんでしょうか。
でも、〜っちと親しみを込めて呼びたくなるくらいには、自分の近くにある(と言うよりは、居る?)、と思い、呼ばせていただきました。
けいさんの記事で、河合隼雄先生を語るマガジンの存在を知りました。
私も隼雄先生の『こころの処方箋』を手に取り、久しぶりに読み返したいなと思っていました。
先日、やっとページをめくり、読むことができたので、感想やら書いてみました。
こんな人もいるんだと楽しんで読んでもらえたら嬉しいです🌱
出会い
私、にじと河合隼雄先生の出会いはというと、最初はなんだったのか、今となっては記憶も曖昧になってしまいました。
受験勉強に勤しんでいた大学時代に触れたか、心理学に進もうか迷いつつ社会学に進み、やっぱり心理学が氣になる大学生時代前半に講義で触れたのか。
氣がついた時には、心のことをたくさん考えたえらい人。学者さん。専門家。というイメージを持ってました。
そして、私の手元にある河合隼雄先生の本は、2冊どちらも古本屋でゲット。先生、ごめんなさい。
『こころの処方箋』は、将来のことや自分のことなど色々悩んでたときに古本屋で見つけて買いました。
その後、ひとまずの自分の方向性が見えつつも、悩みの道をうろうろしていた時に、『母性社会 日本の病理』を同じく古本屋で買いました。
院生時代に、『こころの処方箋』を研究室の本棚に並べていた記憶があります。
疲れた時にページをめくっていたような。
短い文章が並んでいるので、その日の氣分に合わせて選べるのも合っていた氣がします。
院生やってましたが、難しい本を読むのが苦手だったので。笑
読み返してみて
印象に残った所が2つあります。
1つは、たましいの話。もう1つは、闇の話。
順番にいきます。
たましいの話
本を手に取り、目を瞑り、ぱっと開いてみたページから読み始めました。
開いたのは、「心の支えがたましいの重荷になる」という節。
ここでは、中年期の抑うつ症を例にあげ、たましいの話にふれています。
私は、心とたましいが違うと何となく分かっていながらも、じゃあどっちがどうなの?と言うと、よく分からなかったので、イメージ上であっても、心とたましいの関係性を説く文章が新鮮でした。
本書でも述べられているように、両者とも、目に見える形はありません。
けれど、心やたましいなるものがあると仮定して話をする方が、便利なことが多い、と隼雄先生は言います。
そして、たましいの特徴をこう述べます。
読んだ時、なるほどぉ、とうなりました。
隼雄先生の言う「人間の心」というのは、私の普段使う言語感覚としては、「頭」に近いのかな、と思いました。
問題や悩み事をあれこれといくら考えても、すっきりしない、納得できない時があります。エネルギーと時間を使って、頭で考えて整理したのに、氣持ちよく前に進めない時。
それは、まさに頭で抱えきれなくなった矛盾が、たましいのほうに重荷としてのっかっている状態ということだったのかな、と思いました。
こうやって文字に起こしながら、私も少し混乱してきました。
隼雄先生がこの節で言いたかったのは、文中の言葉をお借りすると、
「生真面目に『わけのわかる』解決策をいろいろ考えて」、自分の心で納得しようとするよりも、その「心の下(奥)」、もう一段深いところにある「『たましい』は何を欲しているのか、と問い直してみること」、「イメージの世界に遊んでみること」(「」内は原文引用)
によって、より早く解決につながる、ということなのかな、とひとまず理解しました。
つまりは、と分かりやすくまとめたい所ですが、これ以上私の言語感覚で語るとごちゃごちゃしてしまいそうなので、よく分からなかったり、氣になる方は、『こころの処方箋』、ぜひ手に取って読んでみてください。
闇の話
お次は、「灯を消す方がよく見えることがある」(p114-117)の節から、闇の話です。
前に書いたたましいの節を読んで、その前後を読み、パラパラめくり、行き着きました。
隼雄先生自身が、子どもの頃に読んだ物語が妙に印象的で心の中に残っていたそうで、そこから不登校、甘え、心理療法、専門家の役割など話が広がり、最後は勇気という言葉も登場する。
隼雄先生が幼少期に触れたという物語を、本書から短くまとめました。
隼雄先生は、方向を知るために、一般には必要な灯を消すところがとても印象的だったと言います。
そして、我が子の不登校に対峙する母親を例にあげ、解決への方向を次のように語っていました。
こうして、書いてみて、自分でも驚きますが、先ほどのたましいの話と少し重なる部分がありそうです。
目に見える「学校に行く行かない」という現象が大事なのではなく、むしろ不登校は、母親にとっては我が子との関わりを見直すきっかけでもあり、子どもにとっては一旦立ち止まり、休養する時間、消化(昇華)する準備かもしれない。
話は少しそれますが、私は、「不登校」は決して不幸でかわいそうな話、とかではなくて、親にとっても子にとっても、そして社会にとっても、次なる成長への前段階なのかなと思っています。
不登校のお話は、また改めてどこかで整理したいです。
話を戻すと、指針ともなる灯を消して、闇のなかで目をこらすとは、目先の解決にこだわらず、本質や根本を捉えなさい、と教えてくれているようです。
書いてみて
久しぶりに『こころの処方箋』を読み直して、今の感想を書いてみました。
本から引用したりして、文章を書くと、院生時代の癖が出て、ついつい固く語りがちです。
読み直して読んだ時は、隼雄っちと呼びたくなるくらいには、よく分かったと思ってましたが、こうして書いてみると、やはり自然と隼雄先生と呼んでいました。
どんな人にも分かりやすく、自分の言いたいことを書くのは、本当に難しいです。
記事を書こうと読み込めば読み込むほど、自分の理解度は深まるものの、その理解をまるごとnoteには書けず、どう書いたものかと筆が止まってしまいました。
今日、ここに書いたわたしの『こころの処方箋』の理解は、わたしのこれまでの色んな体験や経験が元にあって、そこから文章を読んで感じ、考えたことです。
わたしが本を読む時も、ある意味で「偏り」でもある色眼鏡で見ているので、読んで氣がつくことや感じることも、偏りがあるかと思います。
ここまで読んでくださった方たちと、それも含めて、互いの違いを楽しめたらいいな、と思います。
今思うこと:闇はどこにでもある。自分が光をどう見い出すか。
そして、やっと本題(?)。
ひとしきり、書いて、出し切って、また返ってきました。
隼雄先生のたましいと闇の話から、私は何を学んだのか。
氣づきを整理します。
闇の話の最後に、「目先の解決にこだわらず、本質や根本を捉えなさい、と教えてくれているよう」と書きました。
たましいの話からは、頭で考えすぎないで、もう一段深いところで何を望んでいるのか、ピュアになろう。といったことを感じました。
どちらも、目に見えることだけが全てではない。と教えてくれているようです。
目に見える現象や表面的なことにとらわれず、その内側で何が起きているのかをやさしくしっかりとらえる。
ゆっくり、じっと、静かに、待つ。
そんな時の流れの中から学ぶこともあるのかな、と思ったりします。
そして、闇、という言葉に今まであまり良い印象を持ってなかった私ですが、今回隼雄先生の灯の話を読んで、少し思い込みが外れた氣がします。
受けてきた学校教育の影響か、育った環境なのか、どうも私は物事を白黒つけたり、良い悪いで整理しがちで、勝手にジャッチしてしまう所があるようです。
ネガティブは悪いもので、
ポジティブが良いもの。
光がよいもので、闇は悪いもの。
どこか、そう思っていて、良いものになろうとする優等生タイプな所があって、昔は頑張りすぎたりもしました。
頑張りすぎると、心身ともにくたびれて、つかれて、闇に飲み込まれやすくなります。
それがこわくて、意識的に光のほうに身を置くようにして、闇を見ないように、触れないようにしていた氣がします。
ですが、今回、闇もただ悪いものなのではなくて、より深みのある成長を迎えるときに闇も必要なのだ、と思いました。
闇の暗さを知っているから、光の輝きや有り難さが分かる。
外のきらびやかなテンポから外れて、内側の深みに潜って、静かに感じるときも大切なのだと、思いました。
最後に
最後まで読んでくださり、ありがとうございます!
昨日書いて、寝かせて朝書き上げました。
氣づきのシェアにおつき合いくださり、感謝です!
最近、書きたい学びの記事が急に増えました。
ある程度溜まったら、学びシリーズとしてマガジンでもつくろうかな、と考え中です。
まいぺーすに書き進めていきたいです(^^)
今日も一段と冷えますね。
暖かくしてお過ごしください。
またお会いしましょう🌱