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成宮鳴海は考える ~明日への対価~

「二次関数とか将来役に立つのかねぇ」
「役に立つかどうかはさておき、数学的な思考を身に着けるということが高校教育における数学という教科の目的なんじゃないのかな」

 あぁ分かっているそんなことは。しかし二次関数や三角関数を勉強する必要性が必ずしもないのなら俺は喜んで人生における数学的思考を手放したいと思うほどに、今この狭い文芸部室のくすんだ天井の下で憔悴し切っていた。
 普段なら文化祭の冊子作成に向けて読書に励むなり、学年一の変人として知られる成宮鳴海の突飛な会話に渋々付き合っている放課後だが、今日の俺は学生の本分である勉学に労力を費やしていた。
 理由は至極単純。明日数学の小テストがあるから。平均点以下の点数をとった者は漏れなく補修。文化祭の冊子作成もままならないのに補修などとんでもないということで、不本意ながら今俺はこうして成宮鳴海に数学の指導を受けていた。変人ではあるが成績は良い彼女は、意外にも勉強を教えるのも上手かった。普段難しいことやスピリチュアルなことに割いている思考力や語彙力をもっとそっち方面で活かせば友達も増えるのではなかろうか。

「あ、鶴見さん、ノートパソコンのセットアップはどう?」
「……順調」
「ありがと、引き続きお願いね」

 先日から新しく文芸部に入部した鶴見鶴子はと言えば、彼女の文芸部加入と引き換えに顧問から購入してもらったノートパソコンのセットアップを成宮鳴海に命じられ、黙々とこなしていた。意外にも勉強を教えるのが得意な成宮鳴海だが、さらに意外なことにコンピュータには疎いらしい。なのになぜノートパソコンを要求したのだと小一時間問い詰めたいところだが、もし鶴見鶴子が入部していなかった場合は今彼女が担当している作業がそのまま自分に流れてきていたのだろう。
 当の鶴見鶴子は、のんびりと文庫本を読む片手間にノートパソコンのキーボードを何やら叩いている。数学の教科書を読んでいないところを見る限り、おそらく彼女も成宮鳴海と同じように成績は良い方なのだろう。入部したときの挨拶以降一言も言葉を交わしていないため彼女の人となりはこれっぽっちも分かっていないが。というか、彼女は何を思ってこの文芸部室にいるのだろう。正直なところ、鶴見鶴子自身は文芸部の冊子作成に協力する義理はないのではなかろうか。顧問との間でどういう会話があったのかは知らないが、そもそもこの文芸部という部活動自体幽霊部員が多いという話なのだから、こうして放課後に真面目に部活に顔を出して成宮鳴海の手伝いをする必要性はないだろう。仮に俺が鶴見鶴子の立場なら間違いなくボイコットしている。彼女は俺と違って顧問が担任というわけでもないのだ。
 眉一つ動かないドライ、無表情、鉄面皮を絵に描いたような顔をしている鶴見鶴子からはその意図も心情も全く読み取れない。だが、真面目に部活動に参加しているあたり少なくとも悪い人種ではないのだろう。

「ほら巽くん、手が止まってるよ。早くその問題解いて。それの答え合わせが終わったら休憩にするから」
「へぇへぇ」

 数十分後。

「疲れたぁ」
「この程度のことで疲れたの?巽くん二年の文理選択は文系選んだ方がいいんじゃない?」
「かもしれないが英語も全然だからな俺。中学の頃から平均以上の点数をとれた試しがない」
「それは難儀だね。分からないところがあれば私が教えてあげるよ」

 さっきも言ったが正直なところ彼女の手を借りるのはかなり不本意だ。この女に借りを作ってしまうとなんとなく後が怖い。必要以上に関わりたくないのが本音だ。明日の小テストが終わったらできるだけ勉強は自分の力で頑張ることにしよう。

「明日が憂鬱でしかない。明日なんて来なければいいのに」
「何言ってるの。どう足掻いたって明日は嫌が応なくやってくるんだよ。いくら雲に隠れる日があるとしても太陽は毎朝きちんと東の空から昇って夕方には西の空に沈んでいくのを繰り返してるんだから…………いや、そうでもないのかな」

 成宮鳴海が小首を傾げる仕草を見て、俺は自分が地雷を踏んでしまったということに気付く。しかし、気付いた時には既に遅かった。

「ねぇ巽くん、明日って具体的にいつからが明日なのかな?」

 はぁ、また始まってしまった。成宮鳴海の哲学論。
 だがしかし、数学の二次関数の解を求めるよりは彼女の無駄口を聴いている方が幾分マシかもしれない。正解がある答えを求める作業よりも、正解がない答えについて考える方がよほど気楽だ。
 それに、今日は俺だけではなくてもう一人傍聴人がいる。ちらりと鶴見鶴子の方を確認するが、彼女は未だにノートパソコンの前で何やら忙しなくキーボードを叩いていた。成宮鳴海の声で顔をあげるような素振りは一切ない。名指しで声をかけられれば別だろうが、いっそ俺も彼女くらいのスルースキルを持っていればよかったと恨めしく思う。

「午前零時からじゃないの?」
「じゃあ、例えば巽くんが夜更かししてベッドに入るのが午前零時を過ぎていたとしたら、その時の巽くんは“今日も頑張ろう”って思いながら眠る?」
「その例えに倣うなら、“明日も頑張ろう”って思うかな」
「つまり、多くの人にとっては自分が眠るまでが“今日”であって、目が覚めてからが“明日”ってことだよね。それこそ夜の勤めの人にとっては朝方に寝て夕方に起きればそこからが“明日”ってことになるんだろうし」
「そうなるね」

 まさか、“眠らなければ明日は来ないことになるよね”なんて荒唐無稽なことは言わないだろうな。
 
「じゃあどうして起きてからが“明日”ってことになるんだろうね」
「学校とか会社とか、そういうのがあるからでしょ」
「そう、まさにそうだよ巽くん。この現代社会で生活している人間は皆何かしらの学業や職務、組織やコミュニティに属している。それらのスケジュールに従って生活しているから私達は“昨日”、“今日”、“明日”と区別することができるんじゃないかと私は思うんだ。つまり、“明日”を迎えなくするための方法は、これらコミュニティからの脱却こそが唯一の方法なんじゃないかと提案するよ」
「要するに退学して家で自室に引き篭もっていれば永遠に“明日”は来ないってこと?」
「その通り。本当の意味で“明日”を認識したくないのなら、部屋のカーテンを常に閉め切った上で部屋にある時間を確認できるものすべてを処分して、外界からの情報を完全にシャットアウトすることを推奨するよ。そうすれば巽くんは今が何年の何月何日で何時何分何秒なのかすら認識できない。今が朝か夜なのかも分からない。永遠に“今日”が続くだろうさ」

 成宮鳴海が言ったことを想像してみる。自宅のカーテンを閉め切った暗い部屋。時間を確認できる時計や携帯、パソコンはすべて部屋の外に放棄。その部屋で永遠に過ごす自分。

「ただの引き篭もりじゃないか」
「そう、ただの引き篭もり。でも、“明日”に怯える必要は一切ない。永遠の安心がそこにある。そう考えるとなんだか幸福だと思わない?」
「多分自分がやったら一ヵ月で餓死してると思うよ。たった一ヵ月で終わるものを永遠とは俺は呼ばない」
「一ヵ月だけとはいえ何にも怯えることがないのを幸福ととるかどうかだね。まぁ実際社会との接触を一切絶って生きていこうなんてそうそうできることじゃない。社会の誰かもしくは何かと関わる以上、どうしようもなく時間の束縛はついて回る。そう考えると、時間っていう概念は社会なくしては成立しないということになる。なんだか面白いと思わない?」

 いつの間にかパイプ椅子から立ち上がっていた成宮鳴海は、部室においてあるホワイトボードに『個人 ⊂ 社会 ならば 時間 は 真』とマジックでスラスラと書いていき、次にその一行下に『個人 ⊄ 社会 ならば 時間 は 偽』と書いた。書き方が先程まで勉強していた数学の内容を引っ張っているような気がする。
 
「人間が生きる上で認識する時間という概念は人間が作ったものであるっていう論理か。まぁ面白いと思うよ」
「もしこの世の中に朝から晩までずっと部屋から出ないで外部との連絡や交流の一切を絶って引き篭もっている人がいるとしたら、その人にとっては私達が認識する“昨日”も“今日”も“明日”も等しく“今”でしかないんだろうね。一体それがどういう感覚なのか、それは私も知りたいと思うけれど」
「それを知ってどうするの?」
「もしかしたら疑似的なタイムトラベルを体験できるかもしれないでしょ?自分の体感的には数日だけどある時に部屋から出たら数年が経っていたみたいな」
「なるほど、つまり成宮さんは浦島太郎に憧れているわけだ」
「どちらかというとバック・トゥ・ザ・フューチャーの主人公かな」

 永遠に続く“今”。明日が来なければいいという他愛のない俺の愚痴がここまで突拍子のない話になるとは。成宮鳴海、つくづく変な女だ。そんな彼女の論理に素直に耳を傾けて妙に納得している自分に内心歯がゆさを感じる。
 成宮鳴海が言うように、もし自分が本当に世の中の何もかもを投げうって文字通りの世捨て人になったとしたら、きっと自分にとっての“明日”は恐れるようなものではなくなるのだろう。恐れはないかもしれないが、おそらくそこに喜びもない。明日が来ないことを素直に喜ぶことができないということは、少なくとも今の自分は“明日”が来ることを望む程度には生きる気力があるということか。

「永遠っていうのは孤独なもんなんだな」
「逆に言えば、永遠を感じていないということは、その人は孤独ではないってことだよ」
「じゃあ、生きる喜びっていうのは孤独では獲得できないってことになるのかな」
「どうしたの急に?」
「いや、なんとなくもし自分が成宮さんが言う通りの世捨て人になったとしたら、すごくつまらないんだろうなと思ったからさ。昨日も明日もない、どこへも行かずに一人で静かに狭い世界で生きるって、苦しみはないんだろうけどきっと喜びもないだろうし。そう考えたら生きる上で得られる喜びとか幸せって、明日を踏み出す勇気に対するご褒美みたいなものなのかなって」
「巽くん、その言葉はすごくキャッチーだよ。もし今の話の内容を文化祭の冊子にするとしたら帯の作者コメントは“生きる喜びとは明日を踏み出す勇気への対価である”って書こう。うん、すごくいい!」

 しまった、また俺は余計なことを言って成宮鳴海の地雷を踏んでしまったらしい。話を切り替えなければ。

「えーっと、もう十分休んだしそろそろ勉強に戻らない?下校時刻もあるし」
「もうそんな時間かぁ。仕方ない、名残惜しいけどそうしよっか。すごく楽しい時間だったよ巽くん」

 なんとなく、俺に対する成宮鳴海の評価が一段階上がったような気がした。まったく嬉しくもないが。

 下校時刻の十分前に俺たち三人は部室を出た。あの後成宮鳴海に付きっきりで数学の問題を見てもらったが、明日のテストはとりあえずなんとかなりそうだ。結局、鶴見鶴子とは今日もまったくと言っていいほど会話することはなかった。途中、成宮鳴海がトイレに出ている間の僅かな時間に一度だけ短い言葉を交わした程度。

「さっきの成宮さんの話、鶴見さんはどう思った?」

 変人として名高い成宮鳴海の真骨頂を間近で見てどう思ったか、目の前にいる鶴見鶴子という女子生徒の感性がどの程度のものかを推し量るには、成宮鳴海という存在はある種の物差しのような役割を果たしているのかもしれない。
 返答は、本当に短かった。

「……別に」

 その言葉からも表情からも、鶴見鶴子という女子生徒の感性は測れなかった。成宮鳴海という存在が役に立たないのか、それとも鶴見鶴子という少女は何かで推し量れるような存在ではないのか。それを判断するには、今の俺には圧倒的に鶴見鶴子という少女についての情報が不足していた。
 下足箱で各々の靴を履き替えているとき、不意に成宮鳴海が口を開いた。

「あ、そういえば鶴見さん。今日の私と巽くんの会話の内容、ちゃんとパソコンにまとめておいてくれた?」
「……うん」
「は?なにそれ俺聞いてないけど」
「実は鶴見さんに文芸部の書記係お願いしておいたの。私と巽くんが部活で話す会話の内容を要約してパソコンでまとめといてねって。前から文化祭の冊子のアイディアになりそうなこと話したりしてるけどちゃんと文字に起こしたりできてなかったからさ。鶴見さんパソコン得意だっていうし」
「念のために聞くけどその中身って思いっきり俺の名前とかも出てるわけ?」
「そりゃそうだよ、議事録みたいなもんだもん」

 何を当たり前のことを、とでも言うような顔で成宮鳴海が俺を見る。その後ろで靴を履き替えている鶴見鶴子は相変わらずの無表情だ。

「えーと、鶴見さんもできればもう少し会話に加わってくれてもいいんだよ?」

 というかむしろ俺の代わりに成宮鳴海の話し相手になってやってくれ。頼む、三百円あげるから。文化祭当日が俺にとってのエックスデーになってしまう。

「巽くん、無理強いするのは可哀想だよ、人には向き不向きがあるし。もちろん何か意見があるときは遠慮なく話の輪に入っていいからね鶴見さん!」

 いやお前の会話に付き合わされる俺は可哀想だとは思わないのか。

「……やっぱり、明日なんて来なければいいのにな」

 そんな俺の嘆きは、すっかり茜色に染まった空へと吸い込まれていった。

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