夏景 後篇 ~空の章~
「一体、どういうことなんですか?」
なんとか鈴音を初音さんの車に乗せて家まで戻ってきた。
鈴音の容態は今は落ち着いており、ベッドに寝かせて休ませている。家に着く頃にはあの異常なまでの身体の重さも元に戻っていた。しかし、見た目が変わってもいないのに身体の重さだけがあそこまで肥大化するなんて常識ではあり得ない。今まで旅してきた場所でだってそんな伝説や言い伝えの類は聞いたことがなかった。
初音さんはどこか迷う素振りを見せたが、やがて語ってくれた。
「こんなこと、言っても信じていただけるか分かりませんけど」
「信じます」
「まだ、何も聞いてないじゃないですか」
「初音さんがこんなときに嘘を吐くような人じゃないってことは、分かってるつもりです」
「………ありがとうございます」
初音さんは少しだけ笑った。
「先に結論を言ってしまうと、東雲の一族は呪われているんです」
「呪われている?」
「はい。祖先の代からずっと。その呪いは、私達一族の人間をこの地に縛りつけるもの。この町の外へ出ていくことを決して許さない呪いなんです」
「どうして、そんなものが?」
初音さんはやるせなさそうに目を伏せ、一つ息を吐いて続けた。
「黒崎さんは、神様や妖怪といった存在を信じていますか?」
「———信じているかいないかで言えば、信じていますよ」
そういう人間の常識や科学では説明できない存在があった方が世界は面白いと思えるから、という理由ではあるけれど。
「今の時代から、およそ千年前。この地域には、【天司】と呼ばれる存在がいたそうです」
「天使?日本の神話や伝承ではあまり馴染みがないような」
「天の使いではなく、天を司るものと書いて【天司】です。彼らは人間と同じ姿でありながらその背に大きな翼を持っていて、空の天候を操ることで人々を天災から守る役割を持っていたとか」
「それだけ聞くと、善良な存在のように思えますけど」
「そうですね。そうだったはずなんです。けれど、当時の東雲家の祖先は過ちからその【天司】の翼を奪ってしまったんです。当時の価値観では【天司】を妖の類だと恐れる人々もいて、その勢力に関わった結果祖先が下手人の役割を担わされた。そうして翼を奪われた【天司】は怒り狂い、子孫末代まで続く呪いをかけた。それが今の時代の私達まで続く“天司の呪い”です。空へと羽ばたくための翼を奪われたその【天司】と同じように、私達一族はこの土地からどこへも向かうことができなくなった。今日の鈴音のように、町から離れようとすると発作のように身体が急激に重たくなって、足が動かなくなってしまうんです」
「病院で診てもらったりは?」
念のため尋ねるが初音さんは力なく首を振った。
「現代の医学でもどうしようもないと。身体自体は健康そのものですし、この町で暮らす分には何の支障もありません。けれど町を離れることは決してできない。私もあの子も、向かうべき場所を奪われたどこにも行けない存在なんです」
「それって、鈴音本人は?」
「知っています。子供の頃から学校の修学旅行に行くことも、家族で遠出することもできませんでした。だから黒崎さんと旅行に行くこともできないって、分かっていたはずなんですけど………」
「………すみませんでした。僕が何も知らずに誘って、お二人を困らせちゃってたんですね」
「そんな、お気持ちは嬉しかったですから。それにあの子も、黒崎さんと一緒ならもしかしたらって期待していたのかもしれないですし」
一通り話し終えると、初音さんはテーブルのマグカップに注がれた麦茶を一口含む。
俺は、上手く言葉が出てこなかった。さっき言った通り、初音さんが嘘を言っているとは思わない。現に鈴音の身体があり得ないほど重くなる現象を自分で体験している。“天司の呪い”というのは本当に存在する事象なんだろう。
———鈴音も初音さんも、向かうべき場所を奪われた、どこにも行けない存在。
———………どこにも行けない?鈴音が?
『私、いつか旅がしたい。自分の目でいろんな景色を見て、知って、感じたいの。そうして、いつか見つけるんだ。私の居場所』
先日彼女が言っていた言葉が脳裏をよぎる。それを思い出して、たまらなく心が苦しくなった。
———そんな、可哀想なことがあるのかよ。
———許せない。
翌日の天気は大雨だった。昨日までの天気予報では晴れだったはずなのに。
「………」
仕事は休みだが、この天気ではどこに出かけることもできない。部屋で趣味に興じる気分にもなれなくて、ぼんやりと窓の外に降りしきる雨を眺めて時間を潰していたとき、玄関のインターホンが鳴った。
ドアを開けると、予想した通りの人物がいた。
「あの、海人さん………」
「上がりなよ、鈴音」
どこか居心地悪そうにする鈴音に対して、俺は努めて優しい口調で家に迎えた。彼女は子供で、俺は大人なのだから。
責められるべきは俺だ。
「ごめん」
「えっ、海人さん?」
リビングで茶を出してから、間髪入れずに俺は頭を下げた。深々と。
「初音さんから全部聞いた。ごめん。俺何も知らなくて。鈴音に、苦しい思いさせちゃったよな」
彼女のためを思って、喜んでもらいたいと思っていたのに、その親切心が逆に彼女を苦しめる結果になってしまったことを、心から悔いていた。
「顔を上げて海人さん。私、海人さんのこと悪く思ってなんかいないよ。私の方こそ、黙っててごめんなさい。海人さんから旅行に行こうって誘ってもらって、すごく嬉しくて。もしかしたらって思って断れなかったの。子供の頃から何度も同じような目に遭ってたはずなのにね、あはは」
そう言っていつも通りの笑顔を浮かべる彼女を見て、体調に関してはもう問題ないようだと俺は安堵する。けれど、彼女に赦してもらっても今の気持ちを収めることはなかなかできそうにない。
「なぁ、本当にどうにもならないものなのか?その、“天司の呪い”っていうのは」
「………うん、きっとどうにもならない。私だって何度もママに聞いたし、お祓いとかしに来てもらったりしたけど。ダメだった」
「そうか………」
本当にどうすることもできないのだろうか。旅をしたいと願う鈴音に外の世界を見せてやることは叶わないのか?彼女の居場所はこの小さな狭い世界の中にしか存在しないっていうのか?
「海人さん」
一人物思いに耽っていると、目の前に座る鈴音が声をかけてきた。
「ん?」
「私、海人さんが来てくれてから毎日楽しい」
「どうして?」
「海人さん、いろんな旅の話、聞かせてくれるし。私、テレビとか旅行雑誌観るのが好きだけど、実際にそこへ旅した人の話を聞くのって、それとはまた違う感じがするんだ」
面と向かって直接話をしてるからかな、と鈴音は言う。
「だから、ね。いいの。私はここに居られるだけで。ママも海人さんもいるこの町、私嫌いじゃないよ。ここが私の居場所なの」
そう言ってはにかむ彼女の表情に嘘はなかった。
でも、それが本心のすべてというわけではないだろう。
「雨、なかなか止まないね」
「………そうだな」
「海人さんは雨、嫌いなんだよね」
「気分が落ち込むしな。太陽が出てない空は雲に覆われてどんよりしてるし。夏は晴れててなんぼだ」
「私は雨、嫌いじゃないよ。毎日ずっと晴れてたらそれはそれで景色が代わり映えしないしね」
間違ってはいないかもしれないが、悲しい主張だと思った。それはこの町から出ることのできない、毎日同じ景色しか見ることのできない鈴音だからこそ言える言葉だろう。
「———こう」
「ん?海人さんなに?」
「一緒に観に行こう。この町の外にある、もっと綺麗な夏の景色」
「海人さん、でも………」
「俺は絶対にお前を連れていく。どうしたらいいかなんて分かんないけど、呪いを解いて、そうしたら一緒に旅をしよう。お前の行きたいところ、観たいもの、居場所、探しに行くんだ」
「………」
「約束する」
「………うん……っ」
それは何の根拠も自信もない薄っぺらな約束だった。
鈴音は目に薄っすらと涙を浮かべていた。きっと彼女だって分かっている。今言ったことがどれだけ非現実的なことなのか。
でも、なんとなく感じたんだ。俺が今までいろんな場所を旅して探してきたもの。言葉にできない漠然としたもの。
それはきっと、こういうものなんだ。
———俺が今まで旅してきたのは、鈴音に会うためだったのかもしれない。
数日後、鈴音が所用で外出している時間に俺は初音さんの元を訪れていた。
部屋に上がらせてもらうと、リビングの机の上に広げられた何枚かの便箋と封筒が目に留まる。
「お手紙、ですか?」
「ごめんなさい、すぐ片づけますね」
「あぁ、いえ。こちらこそ急にお伺いしてすみません」
考えてみると、初音さんと鈴音が住むこの部屋に入ったのはこれが初めてだった。鈴音はしょっちゅう自分の部屋に上がっているというのにおかしな話だ。
ふと部屋の隅にある棚に視線を向けると、一枚の写真が飾られている。写真の中では二人の男女が笑っていて、一人は初音さん。もう一人は、きっと旦那さんだろう。背が高くて人の良さそうな柔和な笑みを浮かべている。奥さんに似て優しい人のようだった。
———そういえば、旦那さんの話は二人から聞いたことがないな。
しばらくここで暮らしているが、旦那さんと顔を合わせたことはない。もしかすると、早くに亡くなってしまったのかも。
———呪いの件といい、初音さんも苦労してきたんだな。
初音さんが机の上を綺麗にしてお茶を出してもらったあと、自分は本題を切り出した。
「初音さん、“天司の呪い”を解く方法って本当にないんですか?」
「黒崎さん………」
初音さんは少し困った表情を見せた。それができないからこの時代まで呪いが続いているということは俺にも分かっている。でも、少しでも手がかりが欲しかった。
「何でもいいんです。以前話していただいたこと以外にも知ってることを教えてください」
「………呪いを解く方法ではないですが。手がかりがあるとすれば、あてはあります」
「本当ですか!?」
「ですが、そこはもう私達の先代が何度も通って調べ尽くしている場所です。今行っても目ぼしいものは見つからないかと」
「構いません。そこはどこなんですか?」
初音さんは部屋の窓の外、町に面する海のすぐ傍にある小山を指さした。
「あそこに神社があるのはご存知ですか?」
「えぇ、確か白崎神社でしたよね」
名前が自分の名字と一文字違いなので印象に残っている。実際に足を運んだことはないが。
「あの神社は、千年前この地にいた【天司】を祀るものなんです。ただ、当時の記録や伝承はほとんど残っていなくて、詳しいことは神主さんも知らないと聞いています」
「分かりました。ちょっと見に行ってみます」
「黒崎さん」
そう言って席を立とうとしたとき、初音さんが俺を呼び留めた。
「あの、どうしてそこまでしてくださるんですか。これは、私達の問題なのに」
「………そうですね。らしくないことをしてるって自分でも思います」
少し前までの、この町に来るまでの自分からは想像もつかない。自分が誰かのために何かしようとするなんて。
「多分、この町のおかげです」
初めてこの町に来た時に親切にしてくれた名も知らぬ人たちのことが今も忘れられない。それは今自分に良くしてくれる鈴音と初音さんのことも含めてだ。
「親切には親切で返すのが僕のモットーですから」
「あっつ………」
勇み足で白崎神社を目指して外に出たはいいが、山道で足止めを喰らっていた。思えば山を登るなんて随分久しぶりだ。傾斜は急だし、人の往来も少ないのか山道は雑草まみれであまり人の手が行き届いていない。途中で道が一部崩落している場所さえあった。極めつけにこの夏の日差しだ。一歩踏みしめるごとに疲労が蓄積していくし全身から汗が噴き出る。
突如眼前の草むらで何かが揺れた。
「うおっ!?」
熊か猪でも飛び出してくるのかと身構えたが。
「………」
出てきたのは小柄な野良猫だった。俺の姿を捉えるとそそくさと緑の海にその姿を消す。
「脅かすなっての………」
ようやく遠目に神社の鳥居が見える頃には、先刻まで自分がいた町並みは随分と遠くなっていた。振り返るとそこには見事な夏景色があった。青い空に白い雲、日差しを受けて煌めく海に、町のずっと向こうに聳える小高い山々。
この町に来てから心に残る美しい景観をたくさん見てきたが、このパノラマが間違いなく過去最高だと思った。空が近くて、広い。じっと見つめていれば吸い込まれてしまいそうなくらい。その空を二羽の鳥が羽ばたいていた。番なのだろうか、互いに寄り添うようにして空の彼方へと向かっていく。夏空を自由に翔けるその鳥たちが、無性に羨ましく思えた。
できればもう少しこの絶景を楽しみたいところだったが、そういうわけにもいかない。夏の青に後ろ髪を引かれつつも俺は先を急いだ。
「着いた………」
スマートフォンで時間を確認したが、家を出てまだ三十分ほどしか経っていなかった。
———この三十分で命の危機を覚えたぞ。
改めて目の前に建つ神社を見るが、それはなんてことのない普通の神社だった。入り口には鳥居。入ってすぐのところに手水舎。境内を少し歩いたところに社殿。どこにでもあるスタンダードな神社だ。ここに【天司】だの呪いだのの手掛かりが本当にあるのか?
「まぁ、探してみないと分からないか」
「何をお探しだって?」
「うわぁ!?」
突然声をかけられ振り返ると、そこに安奈がいた。
「お前、本当にどこにでも現れるよな」
「現れるっていうか、あんたがこっちに来たんでしょ。私の家に何か用?」
「家?ここ、お前の家なのか?」
安奈の家族のことについて聞いたことはなかったが、まさか神職の家系だったとは思わなかった。いや、彼女の不気味なほどの神出鬼没さはそういう血筋が関係していると言われれば妙に納得できる部分もあるかもしれない。
「随分とまあ、見晴らしの良い場所に住んでるんだな。空も海も山も町もよく見える」
「まぁ、ね」
そう相槌を打つ安奈の表情は頭上に広がる爽やかで青々とした空とは対照的に曇っているように見えた。
「そんなことより、お前がここの家の人なんだったら話が早い。安奈は【天司】についてどのくらい知ってるんだ?ここの神社で祀られてるんだろう?」
「………遥かな時を生きる存在。大きく美しい翼をもって空を舞い、人々を空の厄災から守るのが役割。けれど、この地にもう【天司】はいない。千年前愚かな人間に翼を奪われ、空を翔けることは叶わなくなった」
初音さんに聞いた話と同じだ。
安奈は続ける。
「【天司】の翼を奪った東雲の一族は“天司の呪い”を受け、末代まで続く罰に今も囚われている。大方、鈴音の呪いを解く手がかりを探しに来たんでしょ」
「呪いのことまで知ってたのか。そうなんだ、初音さんはもうここには何もないって言ってたけど—――」
「あるよ、呪いを解く方法」
「ッ!本当か!?それは一体―――」
「海人さん!」
「………鈴音?」
声のした方を振り向くと、汗だくになった鈴音が神社の鳥居のところに立っていた。俺の顔を確認すると、ここまでの山道で疲れ切っているのか覚束ない足取りでこちらに駆けてくる。
「どうしてここに?」
「ママに聞いたの。海人さんが神社に行ったって。なんだか、心配になっちゃって。海人さん山道とか慣れてなさそうだし」
「うぐっ」
図星だった。子供に気を遣わせるとはいい大人が情けない話だ。
「まぁ、見ての通り大丈夫だ。それより、今この子に聞いたんだが“天司の呪い”を解く方法があるらしいぞ。そうなんだよな、安奈?」
「まあね」
安奈はいつも以上にぶっきらぼうな口調で答える。どことなく居心地が悪そうというか、虫の居所が悪そうな態度だ。どうしたというのだろう。
「えっと、海人さん?」
「?なんだ、鈴音?」
「この子って………誰のこと?」
「え?」
そう尋ねる鈴音の表情は見るからに困惑している。「海人さんは何を言っているんだろう」という言葉が顔に貼りついているように見えた。
「いや、何言ってるんだよ鈴音。今お前の目の前にいるじゃないか。お前と同い年くらいの女の子。あぁ、そういや安奈って歳いくつなんだ?」
「千六百歳くらいかな」
「ははは、この通り既にちょっとおかしな冗談も言える仲だ」
そう言って安奈の肩を叩いておどけて見せるが、鈴音の表情は一向に変わらない。
「———もしかして鈴音、本当に見えてないのか?」
鈴音はこくりと頷く。
俺はもう一度安奈の方を見た。どこからどう見ても普通の女の子だ。身体が透けてるとか足がなくて宙に浮いてるなんてこともない。
対する安奈はゆっくりと社殿に歩いて行き、大きな賽銭箱に腰を落ち着けて俺達二人を見る。その視線はいつもの悪戯好きな騒がし乙女のそれとは程遠い、まるで大型の肉食動物にでも睨まれた気分だった。
「で、海人。話の途中だったね。鈴音の呪いを解く方法はあるよ。すっごく簡単な話。呪いをかけた【天司】本人が呪いを解けばいいの。それですべて解決。分かりやすいでしょう?」
「安奈、お前はもしかして………」
気にはなっていた。東雲家の祖先が【天司】の翼を奪ったという話。
翼を奪われた【天司】はその後どうなったのか。
「———最初にこの町で海人に声をかけてもらった時は驚いたわ~。まさかこの時代に私のことを認識できる人間がまだいたなんてね」
安奈は懐かしむように視線を空に向ける。
「翼を奪われて、役割が無くなって、誰にも気づいてもらえず、けれどこの地を離れることも、空に還ることもできない。そんな退屈な日々を千年も過ごしてきた。それがどれだけ寂しくて惨めな気持ちかあなたに分かる?海人」
「………」
「何度も何度もこの場所から四季を見送った。春も夏も秋も冬も、私はずっと地上から空を見つめることしかできなかった。空だけじゃない。海も山も川も町も。どんなに綺麗な景色だってね、毎日ずっと見続ければただの“日常”に変わってしまうの。あなたの好きな旅行も同じでしょ?観光客からすれば新鮮で楽しい場所でも、そこにずっと住んでる人にとってはそこに在るものが当たり前なの。そんなの路傍の石ころと何も変わらない程度の価値しかない」
そう語る安奈の双眸から涙が伝っているのが見てとれた。
「私は、この町に住む人たちのことが好きだった。なんにもない場所だけど、私が役割を果たすことでここに住む人たちの幸せが守られているんだって思うだけでいくらでも頑張れたの。なのに、なのに………っ!」
安奈は俺の隣で不安げに立つ鈴音を指さした。
「その子の一族は、私の心を裏切った!私から空と役割を奪って、私の居場所を奪ったの!そんなの、許せるはずがない。だから私も奪ってやったの。奪われたものは、奪い返すしかないでしょう!?」
「安奈………」
「分かったら、とっとと帰りなよ。私に呪いを解く気なんてないの。私が呪いを解いたら、私の千年間はどうなるの。そしてこれからの千年だって。私が東雲を赦せば、私は」
「———なら、代わりに俺を呪え」
「っ、海人さん?」
「………何言ってんのあんた」
口をついて咄嗟にそんな言葉が出ていた。安奈の姿が見えずおそらく今の会話も聞こえていない鈴音はただ困惑し、眼前の安奈は怪訝な表情を浮かべている。
「自分でも分かってるんだろう安奈。今の時代の鈴音や初音さんには罪はないって。本当は赦してあげたいけど、引っ込みがつかなくなってるだけだ」
「ッ、あんたに……、あんたに何が分かるのよ!だいたい、あんたに私達のことは関係ないでしょう?たまたまこの町に来ただけのあんたには」
「関係あるさ。だって、約束した」
「約束?」
「鈴音に、綺麗な夏景色を見せてやるって」
「———くっ、あは、あははははははッ!」
安奈は笑った。楽しそうに。愉快そうに。享楽的に。その笑い声には言いようのない狂気が滲んでいた。
「はぁー、ははは………なにそれ、馬鹿なの?」
「あぁ馬鹿さ。大馬鹿だ、俺は」
親切心もここまで行けばただの馬鹿だ。自分でもそう思う。
でも、いい。もし俺が今の鈴音のようにこの町を一生離れられなくなったのだとしても。
———俺の探していたものは、きっともう見つかってたんだ。
隣で不安そうに俺を見つめる鈴音を見て、こんな状況だというのに俺はとても心穏やかだった。
俺が探していたものは、大事なものはもうここにある。そのために自分がどうなったって少しも惜しくないと思えるものが。どんなに綺麗な景色よりも輝いてて、かけがえのないもの。
———あぁ、そうか。
———俺、鈴音のこと好きだったんだな。
「なら—――」
「そんなのダメ!」
安奈が何か言おうとしたとき、それより一際大きな声が境内に響き渡った。
「鈴音」
「海人さんが誰と何話してるのかよく分からないけど、そんなのダメだよ!だって、それじゃ約束が違う!」
「………?」
鈴音は瞳に涙を滲ませながら言った。
「だって、“一緒に行こう”って、海人さん言ったもん!!」
「………鈴音」
「あーもう、うっさいなぁ」
安奈は眉間に皺を寄せて忌々しそうに鈴音を睨みつけた。きっとその姿を鈴音自身は見えていないのだろうが、何か目に見えない気配や敵意のようなものは感じ取れるのかもしれない。身体を震わせて俺にしがみついてくる。
「そんなに二人一緒がいいなら、望み通り海人も同じようにしてあげるよ。どこにも行けず、二人でずっと仲良くこの町で暮らせばいいわ、私みたいにね!」
鬼気迫る表情で安奈が腕を振り上げ、思わず目を瞑ったその時だった。
「そこまでにしてもらおう」
「っ………?」
聞き慣れない声にゆっくり瞼を開くと、そこに見えたものは—――。
———羽?
白く美しい羽が、目の前で舞っていた。羽はまるで舞台演出の桜吹雪のように地を滑り、やがてその向こうに一人の人影が姿を現す。いや、人影と呼ぶには、それは“人の形をしていなかった”。その後姿には、大きな白い翼が共に在った。
「ッ、【天司】………?嘘、なんで。【天司】が他の【天司】の管轄に踏み入るなんて」
「俺だって不本意だ。来たくて来たわけじゃない」
「えっと、あなたは……?」
思わずその背に声をかけると、それはゆっくりとこちらを振り返った。
端正な顔立ちをした青年だった。限りなく茶色に近い髪に、澄んだ青色の瞳。そして見間違いなどではなく、その背には白い翼が揺れている。
「やぁ。先日は世話になったな」
「先日?」
「なんだ、覚えてないのか。この町に来た時、君がここまでの道を教えてくれたんじゃないか」
「もしかして、あの時の」
そうだ、この顔には覚えがある。いつかの夕暮れに駅前で道に迷っていた人だ。でも、この人が【天司】?どういうことなんだ?
「よその【天司】が何の用?」
安奈がそう尋ねると、【天司】の青年が彼女に向き直り答えた。
「ある人に頼まれた。君を助けてやってくれとな」
「はぁ?何よそれ。というか頼まれた?そんなの一体誰が」
「東雲往人《しののめゆきと》と名乗っていたが」
「ッ、嘘でしょ。往人、あいつまさか本当に………?」
「東雲往人?」
東雲という名字が引っかかり思わず口に出た。
「え、それって、パパの名前」
「?鈴音のお父さんなのか?」
「うん、私が物心つく前に家を出ていったってママから聞いてたけど」
では、目の前にいるこの【天司】は鈴音の父親が連れてきたということになる。それも、安奈を助けるために。
当事者である安奈は激しく動揺していた。
「嘘、本当に………?」
▼▼▼
今から十数年前。海人と同じように私の姿を見ることのできる男が町にやって来た。
私達はそれなりに仲良くやっていたし、空に還れず役割も果たせないまま退屈していた私にとってはちょうどいい話し相手で、いくらか満ち足りた日々だった。
けれど、そいつはよりによって東雲の家の女と恋をして、結婚した。もちろん相手が“天司の呪い”で町を離れられないことを知った上でだけど。
やがて二人の間に子供が生まれる。名前は鈴音。
子供ができたことで、男は“天司の呪い”でこの地に縛りつけられる娘を不憫に思ったんだろう。呪いを解く方法を探し始めて、ついに私にたどり着いた。
「安奈頼む、どうか娘だけでもいい。あの子を自由にしてやってくれ!」
地面に頭を擦りつけて懇願する男———東雲往人を、私は一蹴した。
「そんなに呪いを解いてほしかったら、私の翼を返してよ。あぁ、他の【天司】でも捕まえて連れてくれば、私の失くした翼も元通りになるかもね。じゃ。よろー」
そんなことできるはずがない。そう高を括っての発言だった。【天司】だって他の【天司】がどこで何をしているのか知らないのに、人間なんかにそう簡単に見つけられるはずがないって。
なのに―――。
▲▲▲
「———往人は、今どこで何してるの」
安奈が【天司】の青年にそう尋ねた。
「俺が管轄している離島で療養していると思うぞ。俺に会うためにいろいろと無茶をしたらしくてな。そろそろ病院を退院してこちらに向かっている頃じゃないかな」
「往人があんたを見つけて、ここに来るように頼んだところまでは分かった。でも、あんた自身はどういうつもりでここに来たの?【天司】が他の【天司】の問題に首突っ込むなんてありえないじゃない」
「そうだな、俺も正直かなり嫌々だったんだが—――」
【天司】の青年は少しだけ口角を持ち上げていずこかを見やる。その視線の先に何があるというのだろう。
「まぁ、いろいろとな。この町に来てから、ずっと君たちのことを見ていた」
「はぁ?なにそれ、【天司】がストーカー?」
「俺はただ頼まれてきただけで当事者というわけじゃないんだ。情報を把握しておきたかったんだよ。まぁ、彼が関わっていると知った時点で協力しようとは思っていたが」
そう言って【天司】の青年が再度こちらを見る。
「どうしてですか?」
縁もゆかりもない、それこそ【天司】と東雲家の因縁にもほぼ部外者であるはずの俺に、目の前の【天司】が手を貸す理由なんてないはずだ。
そう思い尋ねると【天司】は一瞬不思議そうな顔をして、やがて薄っすらと笑った。
「君が言ってたんじゃないか。『親切には親切で返す』のだと。それと同じようなものだ」
「………でも、俺がしたのってただあなたに道を教えてあげただけですよ?」
「内容は重要じゃない。君のその親切心が俺は嬉しかった。それだけだよ」
彼の気持ちは分からない。けど、親切に親切で返そうというその心は分かる気がした。
俺だってそうだったから。
俺がこの町に来たのは、知らない誰かのちょっとした親切心から始まったんだ。
「さて、安奈といったか。聞いた話だと、君は翼が治ればそこの女の子の家系にかけた呪いを解くということだったな。では、俺が君を治してやろう」
「———本当に?」
安奈はどこか疑うような、ともすれば不安げな顔で目の前の【天司】を見る。
「あぁ、ただ完璧に復元するのは俺にも難しい。とりあえず翼自体は再生させるから、後は君自身でなんとかしろ」
そう言うと【天司】は安奈の背後に回り、徐に彼女の背中に手を乗せる。すると【天司】の背にあった翼が徐々に発光し始めた。
それは一瞬の出来事で、思わず反射的に目を瞑って、次に目を開けたときには事が済んでいた。
「こんなところか」
「あ………」
安奈の口からそんな声が漏れ出たのがこちらにも聞こえた。
彼女の背には白く小さな翼が生えていた。【天司】の青年のそれよりもかなり小さい、それこそ西洋の絵画の天使の背にあるような小ぶりなもの。けれどそれは間違いなく人の身にはあり得ないはずの翼だった。
安奈は確認するように背にある翼をはためかせる。すると彼女の身体が軽い羽毛のように宙に浮かび上がった。
「あ、は、はは………っ。飛んでる、私、飛んでる………っ!」
空に浮かぶ彼女の双眸から大粒の涙が零れた。
千年の孤独。ちっぽけな人間である俺には計り知れないが、彼女はきっと今ようやく自由になれたんだ。
「良かった。本当に」
「———では、そちらも約束を果たしてもらおうか。安奈」
「………分かったわよ」
安奈は一度地上に降りると、掌を何度かくるくると回したあとで力強く握りしめた。すると隣に立つ鈴音の身体の周囲に赤く細いストラのようなものが巻きつくように出現し、まるで意思を持つように鈴音を離れて安奈の元へ帰っていく。やがてそれは安奈の身体の中に溶けていき、見えなくなった。
「あっ………」
呪いを解かれた鈴音は何かを感じたのかその場で膝をついた。
「鈴音」
「大丈夫、別になんともないの。ただ、なんだか急に身体が軽くなったような気がして」
「いま、お前の呪いが解けたんだ。お前たちを呪っていた【天司】は、もう鈴音のことを赦してくれた」
「………そう、なの?」
「———赦すも何も」
当の安奈はバツが悪そうに視線を背けて言う。
「別に、その子たち個人に恨みはなかったし。海人がさっき言った通り。収めどころが見つからなかった」
「安奈、ありがとう」
「なんであんたが礼を言うのよ」
「あの、海人さん。私を呪ってた【天司】さんは、そこにいるんだよね?」
俺が頷くと、鈴音は見えていないはずの安奈の顔を正面から捉えて、深く深く頭を下げた。
「【天司】さん、今までごめんなさい。私のご先祖様が、あなたにひどいことしちゃいました。本当にごめんなさい」
「———あんたが謝ることじゃないわよ」
安奈はやはり気まずそうな表情で鈴音を見た。彼女のその声すら鈴音には届いていないのだろうが。
「もういいから、どこへでも行けばいいじゃない。そいつと一緒に」
「えっと、海人さん。【天司】さんは………?」
「『もういいから、どこへでも行け』だってさ」
「っ………、ありがとうございます!」
鈴音はもう一度彼女に頭を下げた。
千年続いた孤独と因縁は、この夏で確かに終わったんだ。
数日後。俺と鈴音はもう一度山頂の白崎神社に訪れていた。今日も気持ちがいいほどの快晴で、山頂に到着する頃には二人とも汗だくになっていたが。
神社の社殿の賽銭箱に小銭を投げ、俺達は慎み深く両手を合わせて目を閉じる。
「………」
「………」
しばらくじっとそうして、立ち止まる暑さに耐えきれなくなった頃に目を開けた。
「ふぅ」
「今頃、安奈さんはどうしてるんだろうね」
「さあな。でも、久しぶりの空なんだろ。楽しくやってるんじゃないかな」
あの後、安奈はこの町から姿を消した。
翼が戻り、また空を飛び回ることができるようになったとはいえ、一度裏切られた人間のために【天司】の役割に戻ることに抵抗はないのかと聞いたのだが。
「それが私たちの存在理由だから。千年サボってた分、せいぜい働くわよ」
その言葉を最後に、彼女はこの神社から夏空へと羽ばたいていった。
久しぶりの飛行でどこか覚束ないようにも見えたが、その姿はとても神秘的で美しかった。
「あら、鈴音に海人さん」
「あれ?ママとパパ?どうしてここに」
振り返ると、仲良く肩を並べてこちらに歩いてくる初音さんと、ご主人である往人さんの姿が見えた。
「二人とも、時間は大丈夫なのかい?」
「えぇ、まだもう少しは」
往人さんは安奈が旅立った直後にこの町に戻ってきた。部屋の写真で見た姿しか俺は知らなかったけれど、こうして会ってみると身体のところどころに傷跡みたいなものがある以外は写真と大きく印象は変わらない。実際話してみても、とても優しい人だった。
「二人はどうしてここに?」
「多分、あなたたちと同じ。二人の旅の安全祈願よ」
「今日は、鈴音にとって特別な日だからな」
二人はそう言うと並んで手を合わせて瞑目する。
やがて目を開けた往人さんが誰に言うでもなく呟いた。
「天司郎………」
「?天司郎?」
俺は思わず聞き返してしまう。
「私が連れてきたあの【天司】の名前だよ。海人君が言いたいことは分かるよ、私も初めて聞いた時はおかしな名前だと思ったさ。でも、あれで意外と本人は気に入ってるらしい」
安奈の翼を治してくれた【天司】の青年―――天司郎もまた、安奈が町を離れたのと同じタイミングで元の場所に帰っていった。
「これ以上この町に用はないからな。俺も自分の場所に帰る」
「【天司】さん、本当にありがとうございました」
「礼はいい。俺は義理を返しただけだ。それに—――」
去り際、彼は穏やかな笑みを浮かべてこう言った。
「青空が好きな人間に、悪い奴はいない」
その目はどこか愛おしいものを見るような優しい眼差しだった。
「海人君。君がいなければ、妻と娘はずっとこの町に囚われたままだっただろう。本当に、ありがとう」
往人さんはそう言って頭を下げた。俺は慌てて言葉を返す。
「よしてください往人さん。僕なんて何もしてません。むしろ、何年もかけて家族のために旅してた往人さんの方が」
「確かにそうかもしれない。だけどね海人君。君がこの町に来てくれていなかったら、君があの日天司郎に声をかけなかったら、今はきっとなかったと思うんだ。そう思うと私は感謝してもしきれない」
「だとするなら、礼を言うべきはこの町の人です。僕がこの町に来たのは、この町の人たちの優しい心に触れたからですから」
そう、すべては繋がっていたんだきっと。最初に俺がこの町に旅をしてきたこと。そこで出会った知らない人が俺に温かみを与えてくれたこと。そうして俺がこの町に来て、別の誰かに同じものを与えようとしたこと。往人さんが家族のために一人頑張っていたこと。
この町が、安奈と鈴音たちを救ったんだ。
「———では、そろそろ行きます」
「うん。行ってらっしゃい」
「気を付けて行くんだよ」
俺と鈴音は初音さん達と別れて神社を去る。境内を出たところ、山頂の少し開けている場所から、この町の全てが見てとれた。
青い空と白い雲。緑の山を流れる川に、どこまでも続く広い海。
絵に描いたような美しい夏の景色がこの町にはあった。
思わず足を止めて見入ってしまう。初めてこの神社にやって来た時にも見たが、あの時はじっくり眺める暇もなかったから。
「本当に綺麗だ」
「そうだね」
隣に立つ鈴音も頷く。
「でも、ね。きっとこの町と同じくらい、ひょっとするともっと綺麗な景色が他にもあるんだよね」
「そうだな。世界は広いから」
そう言う自分も、世界の広さなんて何も分かっちゃいないんだ。一人の人間にとってこの世界はあまりにも広い。きっと一生かけたって世界のすべてを巡ることなんてできないんだろう。人は【天司】のように翼を羽ばたかせて、どこへでも行けるわけじゃないんだから。
「———でも、だからこそ旅は楽しい」
「そっか。………そういうの、私もそのうち分かるようになるのかな」
「分かると思うよ。きっとすぐに。もう、お前はどこへだって行けるんだから」
「———うん、そうだよね」
鈴音は笑った。その表情は夏の光を受けて咲き誇る向日葵のように、眩しくて美しかった。きっと、この先の旅の中で彼女は何度だって笑って、見るものすべてに瞳を輝かせるんだろう。それを想像して、俺の心は筆舌に尽くしがたい多幸感に満たされた。
「さぁ行こう。お前の観たいもの、探したいもの、全部見つけに」
「うん!」
俺達は歩きはじめる。夏景を追いかけて。
遠いあの青空の向こうには何が待っているのだろう。俺達がそこへたどり着くのはもう少し先の話だ。
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