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「表現とユーモア」 by Emma.

前回に引き続き、 Emma.です。

今回は表現とユーモアについて話をしたいと思います。

幼い頃から僕にとって表現とユーモアは密接な繋がりがあって、かつ自分は面白いことのできる楽しい人間だという誤解を背に抱えながら生きてきた。

その誤解が解けた今、たぶん僕は理想と現実のギャップに挟まれてしまっているのだ。

「暗い話ばかりすると人が離れる」だとか「面白いこと言えない奴に価値はない」だとか「ユーモアのセンスがないなら言葉を使うな」だとか言われて、そんな心無い意見に首を縦に振っていた時期もあった。

でも結果としてその思考が今僕の首を絞めている。自分が一番暗くて、一番面白くなかったのだ。

表現は自分の内側のアウトプットなのだから、明るくなくてもつまらなくてもいいのだろう。

その評価は、きっと他人依存でいいという話は甘えだろうか。

ここでユーモアについてひとつまとめておこう。

僕の人生の為に。

【ユーモア】
人間生活ににじみ出る、おかしみ。上品なしゃれ。人生の矛盾・滑稽(こっけい)等を、人間共通の弱点として寛大な態度でながめ楽しむ気持ち。

とのこと。
そう、詰まるところ思考の奇抜さと上品さなのだろう。
極めて下品でとても頭が悪い僕がそんな凝ったことを言えるわけがない。

でも、だからと言って人を楽しませる努力を辞めていい理由にはならない。
僕がどんなに後ろ指差されて笑われようと構わない。

人は他者を踏みつけにして排他することで笑えるのだ。

僕はコメディアンだから、人が笑ってくれないと自分の価値を証明できない。

ギターボーカルのしょーまくんとドラムのとーまくんはユーモアのある人間だから、僕は2人に紛れることで自分の暗さや面白くなさを直視しないで済む。

僕が無理に話さなくても、2人が場を明るくしてくれる。

しょーまくんが話している時にギターをなんとなく弾くと、奥さんがその曲に対してクスッと笑ったことが心の底から羨ましかった。

とーまくんと話していると彼のユーモアが故、自分の言葉の稚拙さと向き合ってしまい、それもまた彼の頭の良さを羨んでしまう。

そしてなにより、2人には身近に理解者がいてくれる。
それはきっと一緒にいて楽しいからだとか、話や態度が肌に合うからだと思う。

僕はそれを言葉や態度などの表現にユーモアがあるからだと思う。

ユーモアがある人に人はよく集まる。

そして女性を笑わせられる男は愛されるのだ。

僕は終ぞ誰かとユーモアを語り、解りあうということを実現させることができずに、結局一人で生きていく選択をしてしまったけれど、だからいつも自分は輪に入らず、4人でいるところを少し遠くから眺めて楽しむのだ。

僕は彼ら彼女らと同じ画面に収まってはいけない。

場を乱してしまう。

でもこれを悲しいとは思わない、なんてことはない、ただの仕組みなのだから。

僕の縁者達が緩やかに繋がって結ばれていく。

映画のワンシーンが目の前で再生されていくような、あの邦画の独特なフィルターと空気感で、幸せの風船がどんどん膨らんでいく。

大きい風船は、なんだか楽しい気持ちになる。

こんなに幸せな話が他にあるだろうか?

いや、無い。僕は今間違いなく幸せだ。

僕はそんな電飾綺麗なメリーゴーランドに乗るチケットを持たないから、眺めながら幸福のお裾分けをしてもらうのだ。

僕自身に足りていないその「他者との解りあい」を実現させて、愛し合ってる人たちを眺めるのはそれはとても幸せなことだ。

こんなことを言っても信じてくれる人は少ないだろうと思うけど、僕は自分の表現にユーモアがなくても幸せだ。

周りの人間達が僕の諦めた生き方を選択してくれる。

だから僕はもういいのだ。もう十分幸せだ。

許されるならこのままずっと。

これは表現やユーモアに限った話ではないけれど、僕は2人と関わることで昔の健康な思考を持っていた頃の自分を思い出せるのだろう。

根拠のない自信を、ゆっくり思い出していけるのだろう。

いつかきっと、表現で人を笑わせられる人間になる為に

僕はここにいたいと思う。

ここでずっと、可能な限りみんなを

心から

愛させてほしい。

Rain after Frogs.
Ba.Emma=sympson.

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