
【思い出エッセイ】死んでしまったカブトムシ
初めてカブトムシを飼ったのは小学校2年か3年の夏休みだったはずである。
図鑑に載っていたカブトムシはたいそう魅力的に見え、どうしても飼いたくなった。
図鑑にはカブトムシを捕まえるための仕掛けも載っていたので、その通りの仕掛けを作り、自分の手で捕まえようと考えていた。
しかし、その旨を父親に話してみたところ、そんな大変なことをしなくても食べ終わったスイカの皮を庭に捨てておけばカブトムシはすぐに捕まるという。
半信半疑ではあったものの、たしかに仕掛けを作るのは面倒だし、幸いスイカは畑にたくさんあったのでそれで代用することにした。
夕食を食べ終わった後に父親と二人で三日月型のスイカをスプーンで食べる。
カブトムシの食べる部分がなくなってしまってはどうしようも無いので、皮の部分に多少赤みを残し、それを父親と庭に捨てに行った。
次の日、朝起きてすぐに庭へ行き、前日に捨てたスイカの皮を確認しに向かったが、流石に昨日今日でカブトムシはやってこなかった。
がっかりはしたものの、その程度でカブトムシへの情熱は消えない。
スイカを食べ、その皮を庭へ捨てに行くという行為は数日間繰り返された。
そしてついにある日の朝、スイカの皮に一匹のオスのカブトムシがいるのを発見した。
衝動的に「いた!」という声を出してしまったほどに私は興奮した。
そっと右手の親指と人差指でカブトムシを捕まえ、一目散に走って父親に見せに行った。
父親は一緒に喜んでくれた。
図鑑ではカブトムシは飼育ケースに入れて飼われていたが、家にはそのようなものは無かった。
代わりに大きな水槽があったので、そこに土を入れてカブトムシを買うことにした。
玄関の日陰になっている場所に水槽をセットし、その中に土や枯れ葉、木などを入れ、最後にカブトムシを入れた。
水槽が大きいこともあって小さな林みたいだと満足に思った。
こうして私のカブトムシとの夏休みは始まった。
朝起きると、まずカブトムシを見ることから始まる。
カブトムシは土の中に潜っていて見えなかったり、時に昆虫ゼリーをなめていたりもしていた。
図鑑に書いてあったとおりに毎日昆虫ゼリーを取り替え、霧吹きで水をやり土を適度に湿らせた。
蚊に刺されながらもじっと水槽の前でカブトムシの様子を眺めていたことをよく覚えている。
ずっと見ていても本当に飽きない。昆虫ゼリーを舐めている姿など本当に可愛いものだった。
しかし、残念なことにカブトムシの寿命は短い。当時の私はそのことを知識としては知っていたとは思うが、意識は全くしていなかった。
ある日の朝、いつもどおりにカブトムシの観察をしようと水槽を覗き込んだら、カブトムシがひっくり返っていた。
カブトムシがひっくり返る光景はそこまで珍しいものでもないので、起こしてやろうと一瞬思ったが、その直後それは死んでいるのだと気づいた。
関節が縮こまっており、なんだかいつもよりもカラカラに乾いているように見えるカブトムシを持ち上げて見た途端、私は突如泣き出した。
シクシクといった泣き方では無い。ワンワン泣いた。
すぐに家に駆け込み、母親にカブトムシが死んだことを泣きながら伝えた。
その時に母親がどのような言葉をかけてくれてかは全く覚えていない。とにかく悲しかったことだけ覚えている。
散々泣いた後で、庭に墓を作って埋めてあげようということになった。
スコップで庭に穴を掘り、そこにカブトムシを埋めた。
庭にあった丁度良い大きさの石に「カブトムシのはか」と油性ペンで書き、カブトムシを埋めた場所の上に指した。
本当に悲しい思いをしたことに間違いはないが、残酷なことに生き物の死にはすぐに慣れてしまった。
これ以降もカブトムシやクワガタムシをたくさん飼育したが、二度目以降の死に対しては涙は流れなかった。
この死に慣れるというものが人間に対しても適用されるということについては、この話から十年以上経ってから気付かされることになる。