見出し画像

No.15 なぜ少年の命は消えたのか?―渋草空襲の記録―

 皆さまこんにちは。面河地区・地域おこし協力隊のくわなです。
 前回は、面河渓を観光地として広めた石丸富太郎先生についてまとめていきました。

(前回記事はこちら↓)

 さて、皆さまは本記事投稿日の翌日に当たる7月26日が何の日かご存知でしょうか?
 愛媛県史に詳しい方であれば既知のことかと思いますが、昭和20年(1945年)・今から79年前のこの日から翌日にかけては、米軍による松山市への大規模な爆撃、いわゆる松山大空襲が行われた日です。

 そして、この日空襲を受けたのは松山だけでは無かったという事実は、あまり知られていません。
 この晩、そして太平洋戦争中を含め、当時の上浮穴郡で唯一空襲の被害に見舞われた場所がありました。その地域こそが面河村です。(※1)

 今回は、空襲の全国的な被害状況と照らし合わせながら、数少ない資料とこれまでの聞き取りを参考に、面河村における被害の実情に迫っていきたいと思います。

 なお、本記事は可能な限り詳細な記録を残すことを目的としています。
 刺激の強い表現が苦手な方や、フラッシュバックの危険がある方は、念のためここで記事を閉じていただけたらと思います。
これらの表現が含まれることをご了承いただけた方のみ、この先に進んでいただけますと幸いです。


本土空襲と松山大空襲について

 昭和19年(1944年)6月16日、中国四川省を発った米軍による日本本土への空襲が始まりました。初めは九州の軍需工場が中心に狙われていましたが、サイパン、グアム、テニアンなどのマリアナ諸島が占領され、11月にはマリアナを飛び立ったB29による首都・東京への空襲が始まりました。
 マリアナ基地司令官・ハンセル少将の独自判断により、当初は東京・川崎・横浜・名古屋・大阪・神戸の製鋼・飛行機工場、造船、電気工業の施設・工場群などが、空襲のターゲットとなっていました。

 しかし、初めの東京空襲から3カ月の間に、日本の飛行機工場の生産能力は5%しか落ちてないという推定がなされて以降は、「もっと大きな効果が出る無差別爆撃を実施すべきだ」という内部の声が大きくなってきました。
 この時期、沖縄に上陸しようとしていたニミッツ大将が、その援護として主要都市の空襲強化を要請したことも重なり、戦術は無差別爆撃に転換されました。
 こうして、昭和20年3月10日には東京大空襲が行われ、推定10万人もの人が焼死。その後、大阪・神戸・名古屋が1カ月のうちに大空襲の被害に遭いました。

空襲の様子(イメージ図・筆者作)

 マリアナ基地の焼夷弾(しょういだん)が底を尽き、一時的に航空機製作所や、沖縄戦に対する特攻基地のあった九州南部のみが集中的に攻撃されていましたが、6月からは再び焼夷弾による焦土作戦が再開されました。

 松山市が空襲被害に遭い始めたのは、主に東京大空襲直後の3月19日から。(※2)
 3月~5月までは、松山海軍航空基地(南吉田町・現在の帝人繊維工場や松山空港近辺)の基地本体、兵舎、格納庫、飛行場が爆撃を受け、5月中旬には飛行場沖の帆船も空襲被害に遭いました。
 7月に入り、呉空襲の焼夷弾の余りを衣山地区に投下されたのち、7月24日から本格的に海軍航空基地周辺への爆撃が再開されました。

 そして7月26日木曜日夜半頃。松山市に127機の米軍機・B29(第73航空団)が飛来しました。午後11時8分~翌午前1時18分の間に投下された焼夷弾の量は約813トン。それらによって市街地の70%が焼失。死者数は全容不明ですが、251人~411人に上ったとされています。

 その後も松山市は幾度か空襲被害を受けており、最低でも合計21日543人が命を落としました。(松山大空襲を含む)


B29と焼夷弾の脅威

 ここで、松山大空襲を含む都市への爆撃に使用された機体であるB29と、焼夷弾について少し確認しておきましょう。

 ボーイング社によって開発されたB29(Bはbomber=爆撃機の略)はスーパーフォートレス・超空の要塞と呼ばれ、太平洋戦争終盤の日本に大打撃を与えました。

 主な特徴を4つにまとめると、まず1つ目は長距離飛行が可能であるということ。爆弾を目いっぱい積んでも約3000kmの飛行が可能だったそうです。
 2つ目は、高い高度でも性能を発揮できること。日本軍の一式陸上攻撃機が高度8900mまでだったのに対し、B29は9725mでも安定して飛行できたようです。
 3つ目は大量の爆弾を搭載できること。代表的な日本軍機の5~10倍の爆弾が搭載できたのだとか。
 4つ目は機銃や装備の多さ。日本軍爆撃機の倍に当たる10以上の機銃や、遠隔操作を可能としたほか、高性能照準器までも備えていたそうです。

B29のイラスト(筆者作)
全長は約30mあり、旧日本軍の多くの戦闘機が9m以下、最大クラスの一式陸上攻撃機でも20mだったことを考慮すると、破格の大きさだったことが分かる

 そんな当時の最新技術の結晶であったB29が、日本本土へ大量に投下した爆弾が焼夷弾
 焼夷弾は、通常の爆風や破片で目標を破壊する爆弾と異なり、目標を焼き払うことを目的とした爆弾です。ゼリー状の粗製ガソリンなどが詰められており、900~1300℃の高温で燃焼します。

 焼夷弾にも種類があり、松山市に投下されたものには、大型の「AN―M47A2」(直径約20センチ、長さ約120センチ、重さ約45キロ)や、小型の「M69焼夷弾」(直径約8センチ、長さ約50センチ、重さ約3キロ)38個が空中で散開する「E46収束焼夷弾」などがあります。木と紙でできた日本の家屋を燃やし尽くす”消せない火災”を引き起こす爆弾として、大変恐れられました。
 「E46」は尾翼部にプロペラが付いており、B29から投下される際に、このプロペラが風を受けて回転することにより、上空約700m付近で38個の「M69焼夷弾」を散開しました。

E46収束焼夷弾およびM69焼夷弾の解説図(筆者作)

面河村・渋草への空襲被害

 松山大空襲のあった7月26日の深夜。冒頭でも述べた通り、上浮穴郡で唯一面河村・渋草(しぶくさ)地区は、空襲の被害を受けることとなりました。
 空襲を知らせる鐘の音が渋草に鳴り響き、暗闇の中には火の手が上がりました。この時、空を見上げていた方のお話では「B29が空を覆って真っ黒になっていた」そうです。

 松山と比べると大変小さな集落である渋草ですが、集落の全焼も覚悟されました。ところが、実際にこの時焼失したのは渋草八幡神社のみでした。助かった村の人たちは、「八幡さまが身代わりになってくれた」と感じていたのだとか。

 しかし、渋草空襲における本当の悲劇はここからだったのです。

図中のバツ印の位置が渋草八幡神社となる
この近辺で集中的に焼夷弾が落とされたと考えられる
現在の渋草八幡神社社殿
空襲による焼失後、昭和40年(1965年)に再建されたが、それまでは仮の社殿が使用された
(令和6年7月撮影)

空襲後の悲劇

 後日、村に散らばった焼夷弾の欠片や不発弾の多くは、村の大人たちの手によって、現在の渋草駐在所付近にまとめられました。集められた焼夷弾は、黒い山のようになっていたそうです。

現在の渋草駐在所および役場面河支所第三駐車場付近
この辺りに焼夷弾の残骸が積み上げられた
(令和6年7月撮影)

 ところがこの時、全ての不発弾を回収することができていなかったのです。

 不幸にも、それが何なのか分からない子どもたち2人が、焼夷弾の不発弾を手にしてしまいました。

 一人目の少年は渋草在住。彼は不発弾の一つ(M69焼夷弾か?)を拾い、腰にぶら下げて遊んでいました。ところが、そのまま腰のあたりで爆発したことにより、周辺の骨が砕けるという重傷に至りました。
 隣村である仕七川(しながわ)村にあった個人病院の片岡医院へ搬送され、一命は取り留めたものの、最期までその足には障害が残っていたそうです。

 二人目の少年は大成(おおなる)在住。当時大成地区から渋草地区へは、歩いて小学校に通っていたそうですが、その途上で不発弾(E46収束焼夷弾と推測される)を発見。彼は見慣れないその爆弾についていたプロペラを、顔の近くで回転させました。
 先述の通り、E46収束焼夷弾はプロペラが回転することによって、M69焼夷弾が散開する仕組みになっています。何らかの原因で動かなかったこのプロペラを、手動で回してしまったことでM69焼夷弾がはじけ出し、その場で爆発したのです。
 少年の命は、一瞬にしてその場で尽きてしまいました。

 渋草八幡神社以外の建物が空襲被害を免れたにもかかわらず、空襲によって残された焼夷弾によって、あろうことか2人の子どもたちが被害に遭ってしまった。それこそが渋草空襲における最大の悲劇でした。


まとめ

 渋草が空襲に遭った理由は、様々考察されています。天皇陛下が緊急時に逃げ込むための避難場所があったから。大成地区で火薬の開発研究がなされており、その教習所となっていたから、といったものが語られています。
 その中で最も有力とされているのは、松山大空襲の後にまだ焼夷弾が残っており、機体を軽くするために投下したという説ですが、真相は不明です。

 ただ私自身は、渋草が空襲に遭った理由そのものに、大きな意味はないと考えています。それ以上に、

 なぜ太平洋戦争を引き起こしてしまったのか?
 そこに至るまでどのような問題が起こっていたのか?
 そして何よりも今、同じ歴史をたどってはいないか?


 それを考え続けることが、このような悲劇を生まないために必要なことであり、後世に残された私たちの責務なのではないでしょうか?

 冒頭でも触れましたが、終戦からまもなく79年を迎えようとしています。時が流れ、戦争の記憶が薄れていく中で、二度と再び同じ惨禍を繰り返さないためにできること。その一つが先人たちの記録や言葉を残し、共有していくことだと私は信じています。
 ですので、記事にするかどうかはわかりませんが、これからも情報を集め、何らかの形で共有し続けていきたいと思います。恒久の平和を願って。

 ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。

現在の八幡神社周辺の住宅地
私たちはこの平和が続くよう努めなければならない
(令和6年6月撮影)

【注釈一覧】

(※1)「 ‘92村政要覧」には7月25日深夜とあったが、松山大空襲の記録と照らし合わせると、「刻を超えて」に記載してあった7月26日の深夜が正しいと考えられる。また、松山大空襲からの復路で爆撃されたのであれば、厳密には7月27日未明となる。
(※2)参考文献の一覧表(愛媛新聞online資料)には表記が無かったが、昭和20年2月には松山市への空襲が始まったという記述もある。

【参考文献】

・石鎚の聖流郷おもご‘92面河村村政要覧(1992年・面河村)
・閉村記念誌 刻を超えて(2004年・面河村)
日本本土への大空襲 - 歴史まとめ.net (rekishi-memo.net)
トップ|松山大空襲|愛媛新聞ONLINE (ehime-np.co.jp)
松山基地 (mafura-maki.jp)
日本を襲う銀色の怪鳥-B-29とはどのような飛行機か – 太平洋戦争とは何だったのか (historyjapan.org)
「消せない火災」狙った兵器 米軍が使った焼夷弾の実態 [空襲1945]:朝日新聞デジタル (asahi.com)
調べ学習のためのページ (city.fukui.fukui.jp)


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?