二分法は良くない話

今日は、二分法について考えてみたい。
※「二分法」物事を二つに分けて理解すること、の意味で使ってます。
例: ◯◯賛成派と反対派、精神と物質など。

私たちは日頃、何かと物事を二つに分けたがる。例えば私の地元沖縄だと、米軍基地に賛成か反対かに分別されることがある。「あなたは基地に賛成ですか。それとも反対ですか」と。

しかし、これには弱ってしまう。なぜなら、こうした時にはどちらを選択するにせよ、そのグループの持つステレオタイプによって私自身も理解されかねない。この例であれば、もし私が反対派だと答えると、その質問者は私のことをよく思わないかもれしない。なぜなら、基地反対派とは少なからず米軍基地ゲート前で反対運動をしている人達を想起させるからだ。それでは逆に賛成だと答えるとどうか。一概には言えないが、この人はきちんと基地問題のことを学んだ事がないのだな、と思われる確率が高い。いずれにせよ、良かれ悪かれその聞き手の頭の中にあるステレオタイプによってその人の中での「あなた」が形成される。

だが、それは本当に「あなた」を映し出しているのだろうか。もちろん誰であれ完全にその人を理解することは出来ない。しかし、かといって「あなた」という存在が二分法で理解できることもない。私たちの意見や思考や存在は本来、二分法のような白黒世界ではなく、グラデーションの中に形成される。それは時には淡い黒を写しながら、次の瞬間には全く違う色に変わりうるような、そんな変化の過程、曖昧さの中にある。そんな様子が今、これまでと比べ物にならないくらい強くなっている。

これまでの社会は、学校教育やマスメディアによって、国民国家の概念や日本人らしさなどの共通価値観が形成されてきた。つまり、日本人であればある程度同質の文脈を共有できた。その下に置いては、二分法も幾らかは役立っただろう。同程度の共通文脈があればグラデーションのバラつきも少ないと考えられるからだ。

しかし、現代社会においてはどうか。ある一定の年齢以上の世代では、まだまだ共通文脈を保持出来てるかもしれない。しかし、10代や20代や30代といった若い層においては、共通文脈と言ったものが世代間ではもちろん、その世代内ですら激しく変わりうる。noteをご拝読の皆さんにはお気づきだろうが、それはTwitterやFacebook、Youtubeなどの登場によって可能になった。学校教育の影響は未だ残りつつも、SNSなどの登場によって人々はそれぞれが独自の文脈を持つことが可能となり、それに応じて共通に持つ文脈の割合は減少した。つまり、個別のグラデーションと全体のグラデーションの多様化が進んだ。そんな中で人々を二つのグループに分けることが、どんな良さを持つのだろうか。ぜひ、自分で考えてみてほしい。

そんなこんなで色々書いてみたものの、私は別に二分法をすることに全反対ではない。そりゃあもちろん二つに分けた方が良いこともある。ただ、そればかりだと少し淋しいのではないかと私は思う。午前5時、空を見上げると陽の光に照らされ変わりゆく空の色。夕陽が沈みゆく水平線、徐々にその色は強さを増し、最後には形容し得ない表情を見せ闇夜に去る。どれもその変化の過程は形容し得ないほどに美しい。しかし、もし私たちの目がそれらの変化の過程、グラデーションを知覚することなく、原色でのみ色を捉えるなら、そこには何の美しさも理解も生まれないだろう。二分法にはそのような淋しさがある。それぞれが多様な色彩を持つようになった現在、それらを二分して捉えるのではなく、その曖昧さをそのまま受け入れる方が、良いんじゃないか。そんな事を考える午前4時。

長文、ご拝読ありがとうございました。

#エッセイ #日記  #教育 #グラデーション #二分法 #曖昧さ



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