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東出を観る2『ビブリア古書堂の事件手帖』

1.鴨居

 だめだ〜、東出昌大おもしれ〜、もう東出昌大を通じてしか映画のことを考えられね〜、という深刻な状態に陥ったのは、昨年末『寝ても覚めても』を観てからのこと。それから東出の出演作をすこしずつ追うようになり、本作『ビブリア古書堂の事件手帖』もそのひとつだった。東出は過去パートの登場人物ながら主役以上の存在感で作品の中心にどっしり構えていた。「主役」とか「脇役」のような言い方で表される新たなポジション「東出」だ。そう思えるほどの見事な堂々ぶり。いるな〜、と、存在感が目で追えるかんじ。これは、たんに東出がでかいからそう思うのだろうか。たしかにでかい。ちゃんと鴨居に頭をぶつけて失神するシーンもある。

 ちゃんと?

 ところで、劇映画はいわゆる「ぶっつけ」で撮られるものではない。むろん予算など諸条件は異なるだろうが、リハーサルを経て、準備を踏まえたのちに本番があるはずだ。たしかに東出はでかい。しかしそんなことはリハーサルの時点で誰もが気づいていたはずだ。当然、鴨居の高さも。では、なぜ東出は鴨居で頭を打ったのか。「いや、そういう台本だろ」では説明がつかないとわたしは思う。

 結論から言えば、この映画で東出が鴨居に頭をぶつけたのは、映画の作り手が東出を愛しているからにほかならない。彼らは東出を東出としてリスペクトし、あるがままを画面におさめた。でかさも含めて、である。だから東出は鴨居に頭をぶつけたのだと思う。つまり、でかい東出だから、鴨居に頭をぶつけるのはあたりまえなのだ。

 ときに、わたしの感覚で言うと、東出昌大の魅力は「違和感」にある。すくなくとも『寝ても覚めても』においてはそうだった。もっと言うと、その違和感がいつのまにか観る者に「演じるとは?」「映画とは?」といった問いを呼び起こすところに東出の魅力がある。近い俳優だと、まあ、哀川翔、西島秀俊、赤井英和………ちなみに、この魅力が純粋に東出の能力のみによるものなのか、監督など作り手の作為も加わって起こる現象なのかはわたしにはわからない。というか、そこらへんをたしかめるために観たのが『ビブリア古書堂の事件手帖』だったように思うが、たんに、いろんな東出を見たいよ見たいよ期だった気もする。発達段階では当然のこと。

2.実力

 話を戻そう。どこに? まあ、ともかく東出の魅力は「違和感」だ。本作の東出は太宰に憧れる小説家志望の男で、へんな言い方だが、太宰以上に太宰だ。役柄と東出本人との類似性はよく知らないから横に置くとして、作品の目指すそもそもの方向性のちがいのせいか、『寝ても覚めても』よりは違和感なくすんなり東出の演技を飲み込めた。それは(違和感東出ファンのわたしにとっては)決して喜ばしいことではないが、とはいえ、画面の端々には違和感という名の東出らしさのかけらもあった。夏帆のカラスのマネに吹き出す東出。伊豆の旅館で上裸の夏帆に口づけて、遠くのほうで寄せては返す海の波を見つめることで、ヒッチコック『北北西に進路を取れ』ばりのベッドシーンの暗喩(ほぼ直喩)をかましてくる東出。とにかく煙草を吸いまくって文字通りわれわれを煙に巻こうとする東出…………と、しばらく前のめりに東出を観ていると、「あれ? この人、わりと器用なタイプなのかも?」と思いはじめた。もしや、わたしが観ていた「魅力的な違和感だらけの東出」は、あくまで濱口竜介や黒沢清演出による「作られた東出」だったのだろうか。そうだとしてもめちゃくちゃ魅力的な俳優ではある。おそらく、作り手から見て「作ってみたくなる役者」なのではないか。「これはできるかな?」「これはどうだろう?」と次々におもちゃを与えて反応を見たくなるというか。

 もちろん、仮に演出の力が大きかろうと、そのきらめきは誰にでも容易に出せるものではない。それはたとえば、「夏帆と待ち合わせるあいだ、そのへんで引っこ抜いた草でそのへんをぺしぺしして暇をつぶす」という演技プランに顕著だ。その行為じたいは誰にでもできるかもしれない。しかし、じっさいに画面の中でそれをやってしまえるのがすごいというのは、すでに第1回『寝ても覚めても』の回で述べたところだ。で、なぜそんな演技が「やりこなせて」しまうのか、わたしにはまったく理解が及ばない。きっと東出も、その演技が「やれたからやった」にすぎないのではないか。作り手たちはその一連を見て微笑み、観客たち(わたし)もまったく同じ理由で微笑む。すばらしい。それは「映画の力」に直結するすばらしさで、それを観た瞬間、天然なのか演出なのかなんてどうでもよくなると思う。そういう瞬間をもっと見せてくれ。なあ、東出。

『ビブリア古書堂の事件手帖』(三島有紀子、2018年)


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