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東出を観る1『寝ても覚めても』

1.平気

 昨年末、人から薦められ続けていた『寝ても覚めても』を3年越しでようやく観た。すげ~、映画って進化してるんだな~、と率直に思いました。

 主演のふたりはどちらもすげ~のだが、とくに東出昌大だ。「どうしてそんな芝居が《平気で》できるんだ?」の連続。もちろん、東出本人が平気だったかどうかの話はできないから、たんにわたしが画面に映る《平気そうな東出》に魅了されたという話になる。並の俳優なら躊躇するだろうふるまいをこともなげにやってしまう東出。べつに危険なアクションをするわけでもなければ、いかにも狂気ですといった芝居をするわけでもない。ただただ平気そうで、なんでもなさそうなのだ。なんなんだ。余裕の構え、とも違う。わかりやすくセリフの発話にたとえて言おう。東出は、ふつうなら「なぜこのキャラはいまこんなことを言うのだろう?」と思わざるを得ないようなセリフをことごとくすんなり言えてしまうのだ。念のため言うと、わたしはいま東出のことを「役に対しての理解力や、想像力が高い役者」と言っているわけではない(もちろんその可能性もある)。よくわからないものを、よくわからないものとして抱えたまま、「わからなさ」に対してへたにべつの理由付けをして安心することもせず、わからないまま演技ができてしまう(ように見える)のがすごい、と言っているのだ。なぜそんなセリフが《平気で》言えてしまうんだ、の連続。こんな役者は黒沢清作品における哀川翔しかいないと思っていた。東出昌大。びっくりした。

2.牡蠣

 劇中、おいおいおいおいおいすげえな東出!と叫びたくなる瞬間は山ほどある。というか、ほとんどずっとそうだ。爆竹まみれの東出。シーン頭でいきなりボルダリングをしている東出。牡蠣を食べる東出。ビルの巨大広告に映る東出。皿を洗って手が泡だらけのまましゃべる東出。極め付きは、東出に驚く東出…………人はふつう、スクリーンの中であんなにかんたんに牡蠣は食えない。「牡蠣だなあ」「おれは牡蠣を口に入れるんだなあ」「牡蠣が口に入っていくなあ」といった、カメラの前に立った人間が生理的に示してしまうはずの手順と、それに対しての(言うなれば、自分から自分への)リアクションが東出にはいっさい無い。カメラ前にもかかわらず「ただ食う」「ただ言う」ができるのだ。これはすごいことだ。一定以上の大作で主役を張れる人気俳優でそれができるのがまたすごい。自分から自分に向けられるはずの「おれっていまなにしてるんだっけ?」という反応を省略できる人。それが東出昌大であり、哀川翔だ。両者とも「ただ演技をする」だけで映画の地平をおし広げてしまう存在である。しかし、哀川には映画の地平を広げる「以外」の仕事も多い。だから、という接続詞がおかしいのは自覚しているが、東出にはひとまずそのまま「東出であること」を続けてほしい。へんに気負って東出にしかできない演技を追い求める必要はない。そんなものはないと思っていい。あるのはただの「東出の演技」であり、それが自動的にスペシャルになるだけである。だから、まずは受け手であるわれわれにそれを観測させてほしい。それ。東出のことだ。観るのはまかせろ。とにかくやれ。やってくれ。ひとまず当面はありったけのバリエーションを見せてほしい。たとえば「英語を話す東出」はどうだ。本作で東出は、同僚の瀬戸康史が英語を話せることに驚いている。たしかにそれもそれでおもしろい東出ではあった。しかし、こっちはもうその程度の東出では満足できなくなっているのだ。もっとおもしろい東出を見せてくれ。なあ、東出。

『寝ても覚めても』(2019年、濱口竜介)

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