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鳥の名を鳥に尋ねるかのような

 現代川柳と400字雑文 その92

 S池は山崎さんの散歩コースの途中にある小さな池で、カモなどの野鳥がよく見られるらしい。といっても山崎さんは鳥に詳しくなく、たぶんカモだと思うんですが正確にはどうなんだろう、よく知らないんですよ、と笑う。ある日、池のほとりのベンチに大きな一眼レフカメラを構えた老人がいた。八十代ほどだろう。かたわらには杖が立てかけられている。レンズの向けられた先には例のカモらしき鳥が数羽。「あれってカモですよね?」と山崎さんはつい尋ねてしまったが、老人の返事はない。なんとなくその場に立ったまま鳥のほうに目をやって十秒ほどすると、視界の端で急に、どぼん、となにかが水に落ちる音がした。とっさに横を見ると、老人がいたすぐそばの池の水面に白いしぶきが立ち、波紋が起こっている。はじめは老人が池に落ちたのだと思ったが、池は胸の高さあたりまである木の柵で囲われていたし、その柵や足元が濡れているわけでもなく、水面に目を凝らしても、人や物が落ちた形跡はなかった。不審に思った山崎さんが柵から身を乗り出して波紋の中心あたりにできるだけ顔を近づけたところ、不意にうしろから左の肩をなにか硬いものでぐーっと押された。押す力は非常に強く、また緩められることなく続き、体が柵の上に乗り上がってそのまま池に落ちそうになる。なんとか柵にしがみついてこらえ、体勢をもとに戻して振り向くと、そこには誰もおらず、ただ一本の杖が地面に落ちていた。丸みがかった先端はちょうど左肩を押されたときの感触を思い出させたが、あたりには老人はおろか誰ひとりいなかったし、池のほうを見るといつのまにか鳥すらも一羽もいなくなっていたという。十羽以上いたんですよ、飛び去る音なんかしなかったんですけどねえ、と不思議がる山崎さんは、いまでもカモを見るとあのときの左肩を押される感覚を思い出すという。いや、正確にはカモかどうかわからないんですけどね、詳しくないんで。

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