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東出を観る・5『スパイの妻』

1.軍服が似合う

 というかまあ、軍服姿なら『スパイの妻』ですよね~。あ。なんかすいません急に親しげに。東出昌大の話です。

 濱口竜介が脚本に参加した、黒沢清監督による本作は、ざっくり言うと、趣味でスパイ映画を撮って遊んでた仲良し夫婦が、気づいたらほんとにスパイっぽい立場になってしまいたいへんだ~、というお話だ。フィクションで遊んでたらいつのまにか現実世界にもフィクションっぽい要素が侵食してきてるよ~、というかこれ現実だっけフィクションだっけ~、というか現実ってなんだフィクションってなんだ~、という足元のぐらつくかんじを、ばーんとキャッチーにやるのではなく、順序立ててしっかり着実に積み上げて描いていく印象があった。

 そもそもは「8Kカメラでドラマを撮ろう!」という企画がスタート地点だったらしく、物語のどまんなかに「撮ること」があるのはそのせいなのかもしれない。8Kどうこうにかかわらず、人間は映像を撮りたがる。たいてい被写体も人間だったりするが、そのへんはともかく、まんまと企画の策に嵌って、撮ることのフィクション性についてぐるぐる考えをめぐらせているうちに、そういえば、冒頭で東出が高橋一生に「軍服がそんなに似合うとはね」的なことを言われていたのを思い出した。そのとき一生はにやにやしていたのではなかったか。結局この作品は、あのにやにやがいちばん重要だったのかもな~と思う。

 突然ですが、われわれラジオポトフがすこし前に配信した過去回に「ナースはナースのコスプレができない」という回がありました。本物のナースには虚構としてのナースを演じることはできないのではないか、だって本物なんだし、という話をだらだらする回です。翻って、東出の軍服を「コスプレ」とした場合、それがコスプレで「なくなる」ときのことを考えるとやや恐ろしくなる。なんせ「役者」とは、というか、「東出」とは、すくなからず「わたしたち」という意味でもあるから。

 モチーフに「スパイ」があり、ある程度内容が史実に即していて、さらに「映画を撮る」という行為を取り込んだ作品だ。現実性/虚構性、記録性、そのあたりへの効果は抜群で、これ、脚本段階でそれなりに成功が見えていただろうな~、と思う。

2.やっぱり軍服が似合う

 引き続き、勘で書きます。たとえば、演技についてひとこと「嘘くさい」という物言いがあったとする。その「嘘くさい」とはなんのことだろう。嘘くさいからいいのか。嘘くさいからだめなのか。嘘くさいからいい、のはなぜか。嘘くさいからだめ、なのはなぜなのか。ひとこと「嘘くさい」と言うだけで波紋はどこまでも広がる(東出は波紋の中心に立てる稀有な役者だ。その側に高橋一生というすさまじく勘のいい&スキルフルな役者がいる本作は、ほんとうに充実している)。本気で演技を語るのならば、その波紋を念頭に置いて「嘘くさい」と言わなければならない。あくまで、本気で語りたいならですよ。疲れるのでぼくはしませんからね。しないからね。押すなよ。

 ざっくりまとめると、この作品は「フィクションに興じていたら現実がフィクションみたいな状況になってた」という構造が品よく効率よくエレガントな構成で積み重ねられていく優れた脚本を持っている…………のだが、その脚本が周到な準備のうえで描こうとしている「フィクションの危うさと魔力」みたいなポイントを、東出は「きみ、軍服が妙に似合うね」と言われること一発で表現しているのではないか、ということを言いたい。

 おもしろいので繰り返すと、東出は、「軍服が妙に似合うこと」で、観客に「フィクションってなんだ?」という疑念を抱かせることに成功しているということになる。なんだそれは。どういうこと?

 まだまだおもしろいので繰り返す。「軍服が妙に似合うこと」によって観客に「フィクションとはなんぞや」と考える契機を与える俳優が、東出なのである。ほんとうになんなんだそれは。

 まじですごいな東出。

 ところで東出、『ビブリア古書堂の事件手帖』に続いてまた人妻に恋をしてしまってるのはなんなんだ。作り手は東出に禁じられた恋をさせがちだ。なぜさせがちなのか。そこにもまた、虚構と現実をあいまいに捉えることのできる、人間の特殊能力が潜んでいると思う。

『スパイの妻 劇場版』(黒沢清、2020年)


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