「青の数学」を読んで

 王城夕紀「青の数学」を読んだ。
 数学に魅入られた青年達の話だ。数学という難解なテーマをエンタメに昇華しているすごい作品だ。

 数学とは何か。
 数学の証明は、我々が日常行なっている思考とは少し異なる。
 我々の通常の思考。それは、帰納法に近い思考だ。
 西の空に入道雲が溢れてきたので雨が降りそうだ、とか、蛇口をひねれば水道水が出る、とか。それは、昨日もその前もそのずっと前も同じだったから今回も同じだろう、という考え方だ。水道水が出るメカニズムなど知らなくても、我々が蛇口から水を出せるのは、長年積み重なった経験則からだろう。

 だが、数学においてそれは許されない。
 その端的な例が、「青の数学」にも登場している「ゴールドバッハの予想」だ。「全ての 3 よりも大きな偶数は2つの素数の和として表すことができる」という予想だ。
 ちょっと確かめてみれば、なんとなく正しそうだなぁと思うだろう。
 例えば「4=2+2、6=3+3、8=3+5、10=5+5、12=5+7…」
 簡単に計算できる範囲では、この予想が当てはまることが分かる。では、人間の頭では計算できない途方もない数であればどうだろう。それも、コンピュータをうまく使えばできるだろう。では、そうして一つ一つ計算していけば予想を証明したことになるのだろうか。
 答えは「否」である。「手を離せばリンゴは必ず下に落ちる」という経験則から導き出される法則とは違うのだ。一億桁の偶数まで計算できたとしても、その次の偶数には当てはまらないかもしれない。何故なら、数は無限にあるのだから。世界最速のスーパーコンピュータが宇宙の始まりから終わりまでの時間計算し続けても、証明されたことにはならない。
 我々が義務教育で習った「三平方の定理」がどんな三角形でも当てはまることが分かるように証明されているように、どんな偶数にも当てはまるように証明されなければならないのだ。

「どんな偶数も二つの奇数の和で表される」という命題は、数学ができる人なら簡単に証明できるだろう。ゴールドバッハの予想もそれに類似しているから、簡単に証明できるような気がしてしまう。
 だが、現代に至るまで、人類史に燦然と輝く数学の天才達が誰も証明できていないのだ。恐ろしい話である。

 こうした話題を聞いて、ワクワクする種類の人ならば、「青の数学」を夢中で読めるのではないだろうか。

 さて、「青の数学」はエンタメ小説だ。学術書ではない。
 そこで、なぜ面白いのか、「物語を三層に分ける方法」を用いて分析してみようと思う。
 
 まず第一に小さな物語。これは、各章に散りばめられた、青春劇だろう。数学のライバルたちとの競争、主人公に淡い恋心を抱く少女達と、それに気がつかない鈍感な主人公。数学を挫折した大人。
 特に、ライバル達との競争が、まるで将棋の対局や、部活の試合のような雰囲気で描写されており、そこが我々をワクワクさせるのだ。

 では、中規模な物語はどうだろう。今のところ、その層があるのかどうか、わたしには分からない。

 最後に、大きな物語。これは、「数学とは何か」という問いである。物語の登場人物達は何のために数学を極めようとしているのか。
 なぜ、数学は美しいのか。極めた先に何があるのか。何もないかもしれない。何もない方が、何か異様なものがあるよりマシかもしれない。そういう抽象的な物語だ。

 そして、いずれ主人公達は、「小さな物語」と「大きな物語」の相克に引き裂かれるのではないか、そんな予感を感じさせる余韻が、読後に残る。
 数学はツルツルした理想化された思考の世界だ。
 だが、現実の我々は、食事をし、排泄をし、交尾をし、汗をかき、何より人間関係の中で生きている。ザラザラした地面の世界だ。
 歴史上の数学者達が、不器用な生き方しか出来なかった事例を、沢山知っている。もしかすると、彼らはこの相克に引き裂かれてしまったのかもしれない。

 多分、「青の数学」は、今まで読んできた小説とは違い、構造が剥き出しになってはいないと思う。少なくとも、私が読む限り、簡単に真似できる構造は抽出できなかった。
 だが、登場人物達のキャラクターが皆、個性的で、作り込まれていると感じた。それぞれの、異性に対する態度、そして数学に対する態度の違いが際立っている。ここが、面白さのポイントだろう。
 だから、目標に向かって努力する青春を描こうとするとき、絶対に参考になる本だと思う。

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