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人はいつだって誰かの優しさに救われるのだと思う。|人生で一番悲しいフライトが終わりました。

人生で一番悲しいフライトだ、と思った。

いつも飛行機に乗る前は、その壮大さと、少し遠出できるそのワクワクで胸がいっぱいなのに、今回はそれがない。

おばあちゃんが亡くなった。

母から電話があったのが今日の午前7時。

私にとっては、人生で三回目の誰かの『死』だった。

この間おじいちゃんのお葬式をしたばかりなのに、また身内が亡くなってしまうなんて、こんなのは人生で初めてで、あぁ、歳を重ねるということは、こういうことなのかと、時の流れを感じながら、荷物を一式、ボストンバッグに詰めて金谷を出た。

誰かが死ぬということに、やっぱりどこか冷静さも感じている

ひどく取り乱したりしないのは、もう祖母が老衰で危ないことは数年前からわかっていたし、それこそ実家に帰る度に、何度も顔を見に行っていたという後悔の無さからかもしれないな、と木更津までの各駅停車の電車の中で思う。

祖母は私によく似ていた。

と、いうより、私が祖母にそっくりだった。

肌の艶や性格、丸顔なところも、笑顔がちょっぴり柔らかいところも、少しふっくらしたその唇も、見る度に祖母にそっくりね、とよく母に言われていた。

祖母が倒れたのは、私がまだ小学生だった頃だ。

実家で店番をしている時に、本当に突然、倒れたのだった。

幸い、母の兄が受け止めてくれたのでどこも打たずにすんだのだが、それから集中治療室に入り、退院後もずっとボケが進行してしまい、最後は名前を呼んでも頷くのがやっとのまま、それでもずっと実家のベッドで音楽を聴いたりテレビを見たりしながら、ほぼ寝たきりで過ごしていたのだった。

『おばあちゃんは、何を考えてるんだろう』

当時まだ幼かった私は、ほぼ寝たきりの祖母を見て、そんなことを思っていた。

呼びかけても返事がない日もある。
「遊びに来たよー」と言っても頷くのがやっとの時もある。

ご飯は点滴と一緒に流され、まともに味も分かるのかどうかもわからない。

『おばあちゃんは、生きてるって実感があるのかな』

本当は、そんなことを思っていたこともあった。

祖母の涙と母の愛

しかし、1度だけ、わたしは祖母の涙を見たことがある。

誰もいない室内で、私と祖母だけがぽつんと取り残されていた時、私は祖母の手を握って、いつものように言ったのだった。

『おばあちゃん、遊びに来たよ。
わかる??ずっと寝たきりでしんどくない?
ご飯は食べれてる?最近、寒くなったから、あったかくして寝なきゃダメだよ。』

いつものように、祖母は私の顔をじっと見て頷く。

久しぶりに会えて嬉しいのか、
「うーーー。うーーー。」と笑顔でそう伝えてくれる。

そのときだった。

…ポツリ。

祖母の目から涙が溢れる。

「…泣いてるの?おばあちゃん?」

泣いていた。
祖母は確かに、溢れる涙をこぼしながら、それでも笑顔で私の手を、強く強く、握ってくれていた。

そして、そのとき、私は思った。

たとえ、ずっと寝たきりだとしても、ご飯が食べれなかったとしても、誰かが会いにきてくれなければ、自分で立ち上がったり歩くことが困難だとしても、

生きてるって実感が無いわけがない。

そしておばあちゃんにだって、辛い、とか悲しい、とか、嬉しい、とか、そういう感情は、当たり前に絶対にあるのだ。

うまく伝えられないもどかしさもあるかもしれないけど、

その涙の意味は私には結局わからなかったけれど、

それでも祖母に感情がないわけがなく、そして祖母だってきっと、色々と思うことがあるということを、私はそのときハッキリと、感覚で感じたのだった。

そして、もう一つ印象に残っていることがある。

それは、祖母が一番初めに倒れたと聞いたとき、急いで会社から戻った母が見せた、涙だった。

母は、私が言うのもなんだが、とても気が強く、そして、底抜けに明るい。

超絶ポジティブという言葉は彼女のためにあると思っていて、その明るさにイラつくこともあるが、心底救われたことも、やっぱり何度もあるのだった。

強くて、いつも私のことを包んでくれる母が、おばあちゃんが倒れたその日だけは、私を抱きしめながら、ポロポロと泣き出したのだった。

母の涙は、もう何度も見ていたけど、それはいつでも、〝誰かのため〟の涙だったように思う。

父や、兄や、そして私のために、母はいつも泣くのだった。涙もろくて、優しい母が、それでもその時は確かに、〝自分のため〟に泣いていることを、抱きしめられる腕の温もりの中で、わたしは感じていた。

母の父、つまりわたしの祖父は、母が中学生の頃に急性の病気で亡くなっている。
…あまりに、突然の出来事で、母も、祖母も、その時母の周りにいたであろう人々は、酷く混乱していたそうだ。

そんな死の経験をしている母からすれば、自分の父親だけでなく、母親も亡くなるということは、やはりとても苦しく、辛いものだったのだと思う。

また、失ってしまうかもしれない。
また、居なくなってしまうかもしれない。

母から直接聞いたわけではないが、誰だって一度、誰かをなくした経験があれば、もう二度とあんな思いをしたくないと感じるのは、当然のことではないだろうか。

いくら、自分にとっての第二の家族がいても。

自分が育った環境、育ててくれた人、一番の家族のことは、歳を重ねようが、母になろうが、忘れるわけがないし、大切さに変わりだってないのだ。

だからこそ、母のその心細さを拭えるように、小さなその手で、一生懸命に母を抱きしめたことを、わたしは今もずっと、覚えている。

悲しみの果てにあるのは、やっぱり人の優しさなのだと思う

そんなことを思い出しながら、搭乗口に並ぶ。

あいにくの連休で、夜行バスが軒並み満席の中、「そのくらいの値段であれば帰ってきなさい」と言われた飛行機で、羽田から鳥取へ向かう。

キャンセル待ちでとった航空券に空きが出て、なんとか少し前の飛行機に乗ることができた。

しかし、機内は満席。三列シートの真ん中で、一番最後に搭乗したわたしは困り果てた。

「…荷物を置くところ、ないなぁ」

ビジネス終わりのサラリーマンや、お土産をたくさん持ったマダムの荷物が連なり、わたしのボストンバッグを置く場所が全くなかった。しかも、機内の荷物入れは身長155センチのわたしには少し高くて、背伸びをしても届きそうにない。

「うーん、どうしよう…」

その時だった。

「入れましょうか?」

目の前の席にいた男性が声をかけてくれる。
そして、あっという間に他の人の荷物をすみにまとめて、スムーズにわたしの荷物を入れ込んでくれる。

「…ありがとうございます。」

優しい人もいるんだなぁ、と席に着く。

離陸が始まり、これからのお葬式の段取りなどを考えながら、ぼーっと空を眺めている時だった。

「ほら、あれが富士山だよ。綺麗だねぇ。」

次は左隣に座っていた、紳士的な老人が声をかけてくれた。

山梨の上空を飛んでいる最中には、たまにこんな風に富士山が見えるらしい。

空からの富士山の山頂が見えることは珍しいから、写真に残すといいよ、と言われて、素直に従った。

少し曇っていたが、今のわたしには十分くらいに綺麗だった。

「ありがとうございます。」

そうお礼を告げると、にっこりと笑ってくれた。

…あぁ、嬉しいな、と思った。

人が人を助けたいと思う時、どうしてもそこには、少なからず「自分の気持ち」が入ってしまうことを私は知っている。

これだけやったのだから、返して欲しい。
こんな風に優しくすれば、少しは自分になびいてくれるだろうか。

世の中は欲にまみれているから、そういう考えが横行するのも仕方のないことなのだとは思いながらも、自分もいつしか「人に優しく」という教えの中で、そういった考えを持っていないかと問われると、0ではないな、と思うことが増えていた。

やったから、返してほしいとか

やった分だけ、感謝してほしいとか。

そんな風に人に優しくするのは、正直とても疲れる。

・・・だからこそ。なんの見返りも求めない、ただそこにある「優しさ」に、今日、私は無性に救われたのだった。

人を救うのは、いつだって誰かのそういう、ちょっとした、なんの変哲もない優しさなのだと思う。それでいい。それだけでいい。

ーもうすぐ離陸します、シートベルトをしっかり締めー

アナウンスが流れる。隣の老人が「無事につくといいね」と、また微笑んでくれる。

空港ではきっと、母が心配そうに私の帰りを待っているのだろう。

どんな顔をしているのだろうか、疲れてはいないだろうか、もしかしたらまた少し、わかっていたはずのお別れに涙をしているかもしれないな。

だから、わたしは、なんの変哲もないちょっとした優しさで、またあの時のように母を抱きしめてあげようと思う。あの時よりも、少しだけ大きくなった背丈と、しっかりと母を包むことのできるこの両手で。

「おばあちゃん、待っててね。今、帰ってるからね。」

もう祖母が私に笑いかけてくれることも、その澄んだ目で見つめてくれることも、頷いてくれることも、この先、二度とない。

けれど、私の中にある祖母の記憶はずっと、私の中では永遠だ。

https://twitter.com/mw400813


あなたがくれたこのサポートで、今日もわたしはこのなんの意味もないかもしれないような文章を、のんびり、きままに書けるのだと思います。ありがとう。