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フュチュール (掌編小説)

 この街に聳える巨大な建物の最上階、そこにバーはあった。今日のバーは暖炉の火で温められていて、店内は仄かなオレンジ色で染められていた。暖炉の木の、ぱちぱちという木の焼ける音は、流れている音楽の隙間を通り抜けてわたしの耳に入ってくる。木が燃える音はなんとも心地よく、永遠に聞いていたい気持ちに駆られる。

 わたしはワインを飲んでいた。隣に座る恋人も、わたしとは違う透明に近いワインを飲んでいる。

「最近同じ夢を何度も見る。その夢を見ると、酷く身体が疲弊して起きたときにはまるで身体が紐で縛られたみたいにいうことをきかなくなるんだ。で、どういう夢を見ているのかと言うと、今このバーに流れている音楽みたいな、掴みどころのない夢なんだ」

 彼はそこまで言い終えると、ワインをほんの少し、まるで鳥が水を飲むときのように口に含む。

 わたしの恋人は、ときどき詩人やら小説家になるときがあった。今日がどうやらその日のようで、わたしはグラスに入れられた深い赤色に染められたワインを飲み、小皿に入ったピーナッツをつまみながら彼の話に耳を傾けた。ワインの葡萄の香りが口の中に広まるのを、感じていた。

「ところで、何か食べたくない?」

「いいえ。ピーナッツで十分」

「そうか、でも僕はお腹が空いたんだ。なにか注文してもいいかな」

 彼は肩を竦めると、目の前のワインに息を吹きかけた。その息にどんな感情が含まれているのかを考えるのは、彼と付き合ってのわたしの一つの楽しみになっていた。

「ええ、もちろんどうぞ」

 なんていうか、まるでたった今夢から目覚めたときのように身体が重いんだよ、と言い、彼はチーズを注文した。チーズはすぐに彼の前に現れ、彼はなににも包まれていないものを一つ手に取ると、ぽんっと口の中へそれを投げ込んだ。まるで、子どもがマーブルチョコレートを食べるときみたいに。わたしはピーナッツを、かりっと音を立たせながら噛み、粉々になったそれをワインで流し込む。ワインのアルコールで喉が熱くなる感覚が、彼を初めて見たときに感じた心臓の熱と同じように思え、わたしはチーズを食べる彼の横顔を見つめた。

「それで、夢はどうなったの?」

「ああ、夢か。そうだね、その話をしていたんだ」

 彼はワインを一口飲むと、夢から現実に帰ってきたようにくいっと顔を上げて天井を見た。

「ええ、そう。もう忘れたの?」

「いや、このチーズがあまりにも美味しかったものだから、ついそっちに夢中になってしまったんだ」

 というと、目の前のバーテンダーは、「フランスの地下環境で新しく作られたチーズなんですよ」と、わたしたちに新しい情報をくれた。

「へえ、そうなんですね」とわたしは言った。

「環境が変わればチーズの作り方も変わる。そういうことだね」

 と、彼は言うと「そうだ、夢の続きを話していたんだ」と、話を元に戻す。

「僕は、夢である家に住んでいるんだ」

 そこは広いんだけど、キッチンも風呂もトイレもない、外に通じる扉があるばかり、と彼は言う。

「扉を開けると、当たり前に外に出る。でもその世界は一つではない。外には、三つの世界が存在していて、しかも、強制的に三つの世界に僕は連れて行かれるんだ」

 と、右手の三本の指を立てて彼は揺れる瞳をわたしに見せてきた。いや、揺れているのは彼の瞳ではなく、このバーを照らしている明かりだろうか、と考えていると、彼は「もう一皿チーズをください」と、バーテンダーに伝える。見ると、さきほど注文していたチーズはいつの間にかすべて彼の胃の中へと収められていた。わたしはまだ残っているピーナッツに目を向けた。

「それは、どんな世界なの?」

「一つは、まるで天国とも言うべき世界だよ。石畳の地面に煉瓦や石の建物、街には水路が流れていて、至る所に色とりどりの花が飾られている。香ばしいパンの香りが漂っていて、広場にあるマルシェには果物や野菜、肉や魚なんかが売っているんだ。そこに住んでいる人はみな笑っていて、誰も怒ったり悲しんだりしていない。そこにずっといたくなるような穏やかな空気がそこには流れている。しかし世界はいきなり変わるんだ」

 彼は一度話すのを止めると、「ワインをもう一杯くれないかな」と言った。バーには、時間が経つごとに人が増えてきて、その分の雑音もまた増えていく。彼の夢の話の非現実性と、周囲の声の現実性が混ざり合って、わたしの頭の中を搔き乱す。彼は新しいワイングラスを持つと、それをゆっくりと揺らして中の液体を波打たせた。わたしはそれを見ていると、彼の話している夢の中へと入っていきそうな錯覚を覚えた。

「それで」

 と、ワインを一口飲んでから彼はまた話し始める。

 そのとき、窓の外から風の吹く、ぼわあああっという音が聞こえてきた。わたしは外に目を向けた。ここから見える景色には、木や花といった自然も、都会の象徴ともいうべき聳え立つビル群もなく、ただの暗闇が広がっているばかりだった。見ていると、その空の黒色で身体全身が染まれていきそうな気がして、わたしは窓の外の景色から再びバーの中へと目を向ける。わたしの目の前にあるワイングラスの中身は、そろそろなくなりそうだった。

「それで、どういう世界に変わるのかしら?」

「それより、なにか飲む? もうそろそろなくなりそうだ」

 その言葉で、彼の話がすぐに終わるものではないということを悟った。あるいは、彼は今一人になりたくないのであろう。

「じゃあ、もうおうかしら。ノンアルコールがいいわね。アルコールが少し回って来たし、明日の朝は晴れるらしいから、散歩をしたいの。最近雨で晴れの日が全然ないでしょう? だから、せっかくの晴れにはね」

「ああ、そうだね。それがいい」

 がしかし、ここから見える空には星は輝いていなかった。かといって、黒い空を不気味に覆う灰色の薄い雲も存在しておらず、もし晴れにはならなくても雨は降らないだろうと思う。曇りなら曇りで、肌を刺激してくる太陽光がないのはまた散歩に適した天気だ。

 バーテンダーは、最近購入したというストレートの林檎ジュースを提供してくれた。飲むと、結構な値段がするんじゃないかというほどに林檎の風味が、まるで林檎を直接食べているくらいに、いや、それ以上に口を満たす。

「これ、すごく美味しいですね」

「青森の林檎ジュースですよ。知人が経営している会社から買ったんです。さっきのフランスと一緒で、青森でも地下に適した林檎を開発することに成功したらしいんですよ。それにしても、本当に風味のいいジュースですよね」

「ええ、やっぱり、林檎は青森ですね」

 彼も、「僕もいいですか?」と言って、そのジュースを貰った。飲むと、んん、確かにこれは絶品だ、今の科学技術はすごいな、と声を漏らした。

「それで、夢の続きは?」

「ああ、そうだね。世界が変わると、急に肌にものすごい冷気が四方八方から押し寄せてくるんだ。それはもう一分も立っていれば完全に身体が凍ってしまうんじゃないかというほどの冷気さ。そんな寒さの中、僕は動くことができない。だから、目だけを動かすんだ。その土地には、数十年前の科学の黄金時代と言われていた様々な機械が捨てられている。もちろん動かず、何年もそこにあって、もうさびついているのさ」

 わたしはその話を聞いてもう一度空を見た。よくよくその空を見ると、白いものがちらちらと舞っているのが見えた。

「それで、三つ目の世界はどんな世界なの?」

 わたしは、流れる音楽に耳を傾け、ジュースを飲む。

「ああ、三つ目の世界は、今度は二つ目の世界と違って、驚くほどに熱い。まるで、火山の中にいるような感じさ。熱さで皮膚が焼けそうになって、身体の中の臓器は溶けそうになる。そこには、機械ではなく人間なのか動物なのか分からない骨がたくさん落ちているんだ。そこには、生はなく死のみが存在する。さっきの世界もそうだけどね。そしてその暑さに耐え切れないないと思った瞬間、初めの何もない部屋に戻されるんだ」

 時計を見ると、すでに十一時を回っていた。

「その三つの世界って、まるで今の世界のようね」

 と言ったとき、メールが届く。それは、ここにいる全員の携帯に届き、それぞれにみんなはそれを確認した。

「来週から、高温期、ですって」

「ああ、もうそんな時期か」

 わたしは、ぱちぱちと燃える暖炉の火を見ながらワインを飲んだ。周囲からは「模様替えをしなきゃいけないのか」「ようやく寒さから解放されるわ」と声が聞こえてきた。

「そろそろ帰らない」

 と言うと

「ああ、そうだね」 

 と返ってくる。

 会計を済ませて外に出た。街にはほとんど車はなく、人々はみな徒歩か自転車で移動していた。空は大分上にあった。人工的な月は、今日も夜の街を照らしていた。人間は今、地下世界で暮らしていた。地上は、半年ごとに高温期と低温期で入れ替わり、生物はもうそこで住むことを許されなくなっていた。

 わたしたちは、ほんのりとオレンジ色の街灯が照らす街中を歩いて家に帰った。


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