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「勉強ができる」ということ?

割引あり

このnoteは、↓のツイートの補足的なやつです。

割と言葉足らずなツイートでしたが(自分でものちに結構補足をしている……)、かなり自分のツイートの意を汲んだコメントをいただきました。一応現段階ではいただいたコメント一通り目を通しております。面白い。みなさんありがとう。

で、こう、いろいろ読みながらつらつらと考えていたのですが、なんとなく自分的に腑に落ちた解釈があるのでメモをしておこうと思い、今このnoteを書いています。


1.暫定的な結論

結論から言うと、「勉強ができる」「学問ができる」的な何かは

「思考に割けるキャパシティ」÷「1思考あたりに消費するエネルギーの量」

で決まるのではないかなあ〜という気持ちです。
この割り算でどの程度の量思考できるかが変わってきて、それが限界に達すると「あ、もう無理、考えるのやめよう」ってなって、そのラインが自分の勉強/学問における限界になる、みたいな。

この「思考に割けるキャパシティ」というのは、

(「生まれ持った体力や気力の量」 - 「その時々の精神的/身体的余裕の量」) × (「どの程度思考したいと思うか、あるいはしてしまうか」)

とからへんで決まっている気がしています。
言い換えると、「自分の中に現存する体力がどのくらいあるか」と「その人その人の思考に対するエネルギーの傾け方(好むと好まざるとにかかわらず)」の掛け算で決まるイメージ。
めちゃくちゃ体力や気力がある人でも思考することをそもそもあまり好まないとキャパシティは少ないし、体力や気力の全てを思考に注ぎ込んでいるような人なら意外とキャパシティはあるし、でも病気や労働で疲れてるんだよ!余裕ねえよ!ってときは思考が好きな人でもキャパシティは減ってく、みたいな。

それで、「1思考あたりに消費するエネルギーの量」は、まだうまく定式化できないけど、

・物事を理解する速度
・物事を発想/連想する速度
・教養や記憶力(既存の知識活用による思考経路のショートカット)
・思考することを楽しんでいるかどうか

あたりが関わっていそうな気がする。わからんけど。体感ね、体感。

2.「頭がいい」ということ?

んで、ここであえて「頭がいい」という単語をこれまで使ってきていないのは、もともとこのツイートが「頭がいい」という言葉に対する問題提起的に発生したツイートだったからです。

私は長いこと周囲との偏差値差が大きい環境で育ち、そこから東大に入りました(だから周囲の友人をつぶさに観察していると、いろいろ違いが見えて結構面白い)。

それで気がついたんだけど、幼少期の環境を振り返って語るときに、同級生らのことを「頭が良くない」と呼称するのは何か違和感があるんですよね。

確かに学歴として「東大」というのは私の過ごした環境下では珍しい。

でも、なんていうか、そもそも多分同じ土俵に彼らはいない感じがする。「頭が良い/悪い」と言うと才能だけの話に帰着するように感じるけど、それとは別に「どこまで思考というものを突き詰めたいのか(突き詰めてしまうのか)」みたいな物差しがあって、
私は思考に体力の全てを持っていかれるほど思考が好きだったしやめられなかった。しかし彼らはそこまで自分を思考に侵食される前に思考をやめる決断をしただけではないのか?私が運動にあまり体力を割かないように、彼らは思考に体力を割かないだけなのではないか?
という気が、不意にしたんですよね。

しかし、やはり実際問題として「一定程度の思考をするのにかかる体力の差」みたいなものも当然ある気がする。それを無視してこの話を論じるのもそれはそれで現実から離れすぎているし、思考しないということの全てを自由意志に帰着させるのはあまり本意ではない。

ということをつらつらと考えていて、どこでバランスを取るのがいいのかわからなくなった結果、連続でこの話についてツイートをするに至りました(そのうちの一番上にあったやつが伸びた)。

ふと思いついたが、シャトルランでイメージするとわかりやすいかもしれない。
私は年齢が上がるにつれてどんどんシャトルランの回数が落ちていった悲しき人間なのだけれど、昔は20mを1往復するのにもそこまで体力を使わなかったし、総合的な体力もあった。
でも、年齢が上がり、筋肉が落ちて脂肪が増えていくと、20mを1往復するだけで「いやこんなにしんどいの!?」って感じだったし、体力そのものも馬鹿みたいに落ちていたので、総合して記録がガクンと下がった。
(他にも例えば生理中だったりすると体力がないので当然記録は落ちた。そういう局所的要因も作用する辺りも私が今イメージしている思考体力と話としては似ている)

……ここらへんまでで察されていると思うけれど、私は「頭が良い」というワーディングが個人的にあまり好きではない。というか、定義が不明瞭な割に個人の才能評価に結びつきそうなので使うのを避けている。
もうちょっと明確に物差しを指定した方が共通理解の元に話しやすいのではないか、と思う。
ただ、多くの場合は
・総合的な思考の回数(「勉強ができる」として最初に定義した状態と同じもの)
・1思考をするのに必要なエネルギーが少ないこと

のどちらかを指している気がしていて、それらは分解するとこんな感じになる気がするので、適宜状況に応じて言い換えていきたい。

3.思考の回数を増やすにはどうしたら?

そう、これもつらつら考えていたのだけど、そしたらなんと考えていることのど真ん中を射抜くようなツイートが来た。

そう、これ(コメント本当にありがとうございます)。

私、1章でさらっと
「それで、「1思考あたりに消費するエネルギーの量」は、まだうまく定式化できないけど、

・物事を理解する速度
・物事を発想/連想する速度
・教養や記憶力(既存の知識活用による思考経路のショートカット)
・思考することを楽しんでいるかどうか

あたりが関わっていそうな気がする。わからんけど。体感ね、体感。」

って書いたと思うんですけど、↑の「教養や記憶力」にあたるところが、思考回数を後付けで増やしていく鍵な気がする。
あとは「思考することを楽しんでいるかどうか」も意外と教育次第で変わるかもしれない。これはどうなんだろう、人により解釈は割れそう。

と思うと、現代の教育とはかなり優秀なのだなあとしみじみ。

また、これらのツイートを読んだ上で寄せられたコメントとして

というものもあったのだけど(コメント本当にありがとうございます)、それもここで考えてみると、思考エネルギー量のコスト削減の分野については

①教養を増やすことで思考経路をショートカットする
②さらに↑を外部化する(ブログに書くなどのアウトプットを通じて、一度考えたことにあまりコストを割かないようにする。車輪の再発明防止)
③当該分野について思考を巡らすことを楽しめるようにする(これはケースバイケースでそもそも可能だったり不可能だったりしそう)

とかがありそう。こういうのでちまちまコストを削減していき、自分が思考できる限界ラインを上げていくというか。というか書いてて気づいたけど、ツイッターやったりブログ書いてたりするのって思考の外部化に確かに役立ってるかもしれない。
それから、単純に体力や気力がしっかり現存しているということが一番重要な気がする。どれだけコストカットしても、思考キャパシティの元手が減っちゃったらあまり思考ラインは上がらないような。


4.終わりに

書き散らした〜〜〜〜〜。はーすっきりした。
またいろいろ思考が深まったら追記するかもです。コメントお待ちしてまーす。


(2024/1/14追記)

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