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希望は必ずしも、僕らを生かしてくれるわけじゃないけれど

今から9年前、15歳の時のこと。
僕は「死」をとなりに置いたことがある。

少し暖かくなってきた、冬のよく晴れた日だった。

自分は自分を守るようにできている

高校1年生になって少し経った頃、僕は言葉が思うように出なくなっていた。

自分の名前すら、満足に発することができない。
言葉が頭に浮かんでいるのに、どうしても1音目が口から出てこない。
喉は詰まった排水口のようになっていて、声が自分の意図とは違う流れ方をする。

その頃、自分にとって2つの大きな出来事が起きていた。

1つは、母の降りかかる手を掴んで初めて押し返したこと。
それまで”親”だと思い、怖れて、反抗していたのは、自分の力で倒れる一人の人間だった。その瞬間に、自分の中で”親”という存在が壊れた。
母は狂ったように暴れ、爪でえぐられた親指の傷は今でも残っているけれど、それ以来、母の手が降りかかることはなかった。
”敵”だと思っていた存在が敵ではなくなり、自分を戦わせるものがなくなった。
オイディプス王でいうところの親殺しが、15歳で来たのだった。

不安定になった自分は、自立を迫られた。

もう1つは、別れた恋人が自分の中で偶像化したこと。
依存し、沢山傷つけることで愛を搾り取っていた恋人が僕のもとから離れていった。
自立を迫られる中で、愛という足場が崩れ落ちた自分は、無意識に自分を保とうとしたのか、恋人を偶像として自分の中に内在化させた。
僕は無宗教だが、自分にとってのキリストができていったと考えるとわかりやすい。

言葉が出なくなったのは、こういった心理的な負担や、いびつな精神構造が重なって、いわゆる吃音症が発症したのだった。当時は吃音という言葉も原因もよく知らなかったけど。


止めどなく湧き上がる感情が、ただでさえ収集がつかないのに、言葉という外の世界と繋がるための橋を失くし、どんどん自分の中で沈んでいった。
僕は軽いうつ状態に陥った。

うつというのは面白くて、これでもかというくらいに自分や他人を攻撃する感情が湧いてくる。
これは不幸中の幸いだったと言って良いのかわからないけど、大好きだった少年漫画の主人公たちは絶対に人を恨まなかったので、僕も頑なに人を恨むことはしなかった。ジャンプは本当にいい仕事をする。

行き場をなくした感情たちは、自分を責めはじめる。
僕は生き耐えるために、手首を切り、偶像に思いを馳せた。


初めて自殺未遂を起こしたのは、ちょうどこの1年前、中学3年生に遡る。


選択は何かを置きざりにする

多くの人にとって、中学3年生というのは、生まれて初めて”自分で自分の将来を決める”ことを迫られる年齢である。
程度やかたちに差はあれど、部活や恋に一旦区切りをつけ、やって来る将来へと向き合うのだ。
地方に住んでいると学校の数も限られているから、選択肢は大体決まっているけれど。
それでもいくつか考えうる将来の中から自分の道を選び取っていく。

かくいう僕も、10月に入るとしぶしぶ受験勉強へと移行した。
大好きだった部活を引退するのは、初めて自分の居場所から引き剥がされる感じがして、落ち着かなかった。
それが嫌で、夏休みが終わるくらいまではバスケットコートに入り浸っていた気がする。

冬になると、学校と家の往復になった。
部活ばかりやっていたので、成績はすこぶる悪い。
それでも幸運なことに、勉強は好きだった。乾いたスポンジみたいに、やればどんどん出来るようになるのが面白くて、友達と成績の伸びを競い合った。今よりもっと自由になる高校生活に想いを巡らせた。
あれほど入り浸っていたバスケットコートは、自分の居場所から抜け落ちつつあった。

心はいつも生と死に挟まれている


家に帰ると、怒号が飛び交っている。
壁に穴があき、ものは壊れて横たわっている。

うちは二世帯住宅で、暮らしている人が多いから関係がこじれやすいのだろうけど、みんながみんな自分のことを守ろうとしていた。
ほんとうのところの理由はよく知らない。

もちろん僕も例外ではない。安心感という足場がない分、叫ぶことによって自分を支えていた。
通っていた中学校はとても好きな場所だったけど、僕の世界は、学校と家がすべてで、どっちも多分、すごく自分の心を作っているから、どっちかが上手く行かないと、全然気持ちが落ち着かない。

受験生だった僕は、ちょっと無理をして県内で1番難しい高校に行こうとしていて、落ちたときのこともよく考えてたんだけど、落ちたときに頭に浮かんでくるのは、家で飛び交う叫び声だった。人の声は、居場所を作る力を持っている。

『自分の居場所はどこにあるんだろう』

どれだけ怒号を張り上げても、考えても、そのことで居心地がよくなるわけじゃないけど、それしかできなかった。
自由が待っているはずの将来は、自分に希望というおもりを持たせてバスケットコートには戻さなかった。

ふと『志望校に落ちたら死ねばいい』と、言葉が頭をかすめた。
ぷつん。と糸がきれるような音がした。

死という概念の甘い響きに、いっぱいいっぱいだった気持ちが解けていく。
「死」は、挨拶もなしにやってきて、安心感を置いていった。


僕は生まれて初めて遺書を書き、机にしまった。
人が死を覚悟するとき、筆は止まったりしないのだということを知った。

心の針を生に振らせるもの

合格発表の朝、受験番号が載ってなかったことを一足早く結果を見に行っていた友人から聞いた。
茨城の田舎だったので、発表は受験校の掲示板に張り出される。

念のため、自分の目で確認しにいったけど、やっぱり載っていなかった。
同じく落ちていた友人と、滑り止めに受けていた私立の高校に一緒に行くことが決まった。

その後、カラオケに行って友人と一緒にレミオロメンの3月9日を熱唱した。
不思議と落ち込んではいなくて、受験が終わった開放感と、高校生活へのワクワク感が勝っていたことを覚えている。

散々歌ったあと、帰り道でドラッグストアに寄った。
睡眠薬を買うためだ。

痛いのは嫌だし、寝て死ぬなら怖くないなと思ったから、たくさん睡眠薬を飲んで死のうと思った。
致死量は大体調べていて、そこに売っていたやつだと5箱くらい必要だった。



財布を確認すると、中学生の所持金では高くてとても買えなかった。

ドラッグストアを後にすると、気が抜けてしまい、道端に座り込んだ。
我ながらとっても安直な考えで頑張ってたんだなぁと、少し呆れて、なんだかホッとした。
机にしまった「死」を取り出して、外に出てから破いて捨てた。
僕の小さな死は、未遂の未遂くらいで終わってしまった。


希望は、必ずしも、生につながるわけじゃない。
ぷつん。と切れた気持ちと、将来への希望は、1mmだって繋がってなんかいなかった。
希望よりも、もっと小さな粒みたいなものが、たまたま僕を生かしたんだなと思った。

逃げた先にあったもの

高校2年生になって少し経った頃、僕は左手の切り傷を隠しながら、スクールカウンセラーの先生のもとを訪ねた。
それまで通っていた精神病院は、その頃に起きた大きな地震のせいで、なんだか疎遠になっていた。

先生がいる部屋は”相談室”と呼ばれていて、学校や家、友達や家族との関係をうまく紡げなかった生徒たちが集まってくる。
相談室は予約制で、保健室の先生を経由して事前に予定を入れてもらう。

少し緊張しながら、相談室のドアに手をかける。
高校生の自分にとって、それは自分を弱者と認めるような行為だった。
そのときに自分が属していたグループや、他校の知り合いたちの中で、弱者は1人だっていない。

意を決してドアを開けて、部屋に入る。僕より3倍ほど長く生きている1人の先生が佇んでいた。
その人は、僕の顔を見ると笑いながらこう言った。

『よく来たね。君は来ると思っていたよ』

それが慶子先生と初めて話した瞬間だった。

希望と呼ぶにはあまりにも軽率だ

先生と話すのは、決まって水曜日の14時から15時、週1回。
水曜日は、お昼を食べたら5限目には出ずに図書室で少し本を読んでから、相談室へと向かう。
寝坊した週は、教室に行かずにそのまま先生のもとへと向かうこともある。

他愛もない話をしてから、気持ちが落ち込んでいるときはそれについて話をする。なんとなく自分の中で答えをつかんで、相談室を出てから考えた色んなことを、次の週に持っていって一緒に整理する。

他の生徒は3~4週ほどで悩みが解決して来なくなるらしいけど、僕は高校を卒業するまでの2年ほど、合計100回くらい通っていた。
100個も悩みはもちろんなかったけれど、その時間がとても好きだったので、高校3年生になってうつ状態が落ち着いてからも、足繁く通い続けたのだった。

最初に抱いていた気持ちの他にも、バスケ部でのこと、クラスでの文化祭のこと、通い始めた俳優の養成所が楽しいこと、恋人と別れようと思っていること、将来のこと、色んなことをゆっくりと話して、見つめていった。

慶子先生は決して問題や答えを言ったりしなかったけど、たまに関係のない話や、最近のお仕事の話を通じて、今の自分が持っていない気持ちや視点をくれる。

『ほんとうはカウンセラーは自分のことについてあまり話しちゃいけないんだけど、あなたには話しちゃうわね』

慶子先生は、茨木のり子の詩の話をしながら、そう言って笑っていた。
大人や子供関係なく、自分が1人の人として見られているようで胸のあたりが暖かくなったのを覚えている。

特に話すことがなければ、相談室でずっと本を読んでいるだけの日もある。
お菓子をもらって帰るだけの日もあった。

週に1度、先生を通じて自分のかたちを知っていく、認めていく、作っていく、好きになっていく。
そんな時間が、2年ほど続いたのだった。

誰かを通じて自分と向き合うということ

高校3年生が終わる頃、僕は行きたかった慶應義塾大学のサイト上で、自分の受験番号を確認した。
小さくガッツポーズをして、学校へ向かう。

先に受験が終わっていた親友やクラスメイトたちと抱き合って、少し泣いた。職員室に行くと、担任や教頭、教科担当の先生たちが湧き上がった。
不安定で、遅刻ばかりしていた自分は、とても周囲に心配されていたようだった。
いい学校に来たもんだなぁと呑気に考えながら、一通り挨拶を終えて、最後に相談室へと向かう。

予約はしてなかったけれど、保健室の先生にお願いして慶子先生が空いている時間を教えてもらう。
少し待ってから部屋に入り、合格した旨を伝えると、慶子先生は泣き出してしまった。

どれだけ心配させていたのかとあたふたしていたが、先生は僕のこれからの道筋が決まったことが、とても嬉しかったようだった。

『あなたは、まだレールがないと、どこかへ飛んで行ってしまいそうだもの』

そう聞いて、僕は少し笑った。
先生はこう続けた。

『でもあなたは、これからもきっと、大丈夫。だって、あなたは誰より、これまで悩んできたもの』

僕は知った。この人はこんなふうに人と向き合うのだと。
そして、人はこんなふうに誰かを受け入れ、誰かを愛し、誰かのことを大丈夫だと信じることができるのだと。
この人は、誰かの背中に手を置き、押し出して、そしてどんな選択であれ、相談室で待っていてくれる。
僕は生まれて初めて、こんな大人になれるなら、これからも生きていきたいと思った。

偶像は、いつの間にか消えていた。
今思えば、自分はドアに手をかけたあの日、強者であることよりも、生きていくことを選び取ったのだった。

希望を希望たらしめるもの

卒業してからも、不安定になると慶子先生とたまにデートをしていた。
そのときに、あのときのことを聞いてみた。

『あなたはなぜか来ると思っていたのよね。廊下ですれ違ってから、気になっていたの』

また先生は笑った。
理由は釈然としなかったが、何年か経ってから読んだ『世界地図の下書き』という小説に、その答えが書いてあったような気がした。

この小説の中では、孤児院で育つ主人公に向けて、同じ場所で育った少女が望んではいない自分の運命を受け入れ、ある言葉を残して去っていく。

私たちは、絶対にまた、私たちみたいな人に会える。逃げた先にも、同じだけの希望がある。


希望は、やっぱり必ずしも、生につながるわけじゃないけれど、希望よりも、もっと小さな粒みたいなものが、たまたま人を生かしていく。
それでも、その小さな粒たちが自分に残っていって、自分を生かしてくれる希望になるんだと思う。

誰かが見せた希望は、人を生かさない。
けれど、あなたが出会ってきた粒は、あなたを生かす希望になっていく。

僕は、15歳のときの自分に、そしてこうして出会えたあなたに、心底思うのです。

俺もあなたも、これからもきっと、大丈夫。

彼らを助けたいと思う大人たちへ

僕が高校生の頃から何度も泣きながら読んできた、ジャンプで連載された”SKETDANCE”という漫画がある。
主人公のボッスンは、自分が通う高校で人を助けるスケット団という部活をつくり、学校にいる色んな思いを抱えた個性豊かな仲間たちの悩みを解決していく。

最終巻で、彼は「君の人助けとは何だ?」と問われ、真剣な顔で、こう答えるのです。

理解者になること。

乗り越えることは変わることじゃなくていい。
その人が今いる位置を認めて
愛しいと思えるように
背中を押す事。

お願いです。
どうか、彼らを変えようとしないでください。
辛いことのために変わる必要なんてない。
彼らは変わったりしなくても、今、生きている。
彼らを生かすのは、大人が見せる希望なんかじゃない。
背中を押してくれる存在さえあれば、きっと、歩き出せる。

最後に、好きな場所へ行こう。

SKET DANCEでは、ボッスンたちが劇中の文化祭でバンドを組んで歌を歌うシーンがあるんだけどね。
彼らはやっぱり、それも悩んで苦しんでいる友人のために、声を張り上げる。

世界は今日も簡単そうにまわる
そのスピードで涙も乾くけど

キミの夢が叶うのは
誰かのおかげじゃないぜ
風の強い日を選んで
走ってきた

飛べなくても不安じゃない
地面は続いているんだ
好きな場所へ行こう
キミなら それが出来る

ーthe pillows「Funny Bunny」ー

同じ声でも、自分のためじゃなく誰かのために張り上げた声は、自分や誰かの背中を暖かく押してくれる。
僕はこれからも、自分やあなたが好きな場所へ行くために、声を張り上げながら、懸命に生きていこうと思う。

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あれから9年が経ち、僕はもうすぐ24歳になります。
慶子先生との差は、2倍ほどに縮まってきました。

実は、大学に入ると両親に向けて感謝の手紙を書いて泣かせてしまった話や、美談にはしきれない弟たちへ僕がしてしまった罪と罰などの話もありますが、それはまた追々。

なお、ここには書ききれていませんが、僕がここまで生きていく上で出会った、大切な人たちがいます。
親友の中崎、愛すべきクラスメイトたち、担任の萩原先生、小児科医の大塚おじいちゃん、予備校の鴨さん、舞台を通して僕の過去と向き合ってくれた演出家の太田さん。
その方たちに感謝を捧げるとともに、この小さな「死」は締めくくろうと思います。

今も言葉はうまく出ないけれど、僕は15歳のときのことの意味を、こうしてときどき、ひっそりと汲むことがあるのです。

2018/10/16 Takuya Takahashi

#8月31日の夜に

追記:
このnoteが本に収録されました。
僕には一銭も入りませんが、ぜひご覧になってみてください。笑


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