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明日への逃避行 1話「Lovers sing⑨」

 ゲーセン2階のたまり場にコーヒーの香りが漂っている。信哉の叔父から譲り受けたコーヒーメーカーはズボラな男3人には似つかわしく、普段は埃を被っている。今日は久々の稼働だ。
和樹も翔も、眼の前のソファに腰掛ける美女にかける言葉がなく、沈黙の中でコーヒーメーカーの低い稼働音と豆の香りだけが漂っている。
翔がカップにコーヒーを入れて差し出すと、詩織は小さく会釈し、何かを囁いた。あまりに小さくて聴こえなかったが、状況から考えておそらく「ごめんなさい」と言ったようだ。
「俺らに謝られてもな。」
「翔、それ以上言うなって。」
「信哉怪我しとんねんぞ?3針縫って済んだからよかったものの、もっと酷い怪我になってたかもしれんやんか。」
「それはそうやけど、それより何でこうなったんか聞かな。」
「警察に任せた方がええやろ。」
「信哉も話聴いといてくれ言うとったし、とりあえず俺等で話聴いて、警察呼ぶか考えよう。」
翔は不服そうだが、とりあえずイスにダラシなく腰掛けて聴く態勢になった。
「それで、なんで包丁なんか持って歩いてたんですか?」
和樹はたどたどしく尋ねた。元々女子と話すのはあまり得意ではない。ましてやこんな状況ではどんなトーンで話して良いのかさっぱりだ。本当は翔の方がこういうのは上手いのだが、今は頼れない。
「あの男の所に行こうと思って。」
「細野?」
「はい、どうしてもじっとしていられなくて。」
「だから、その、殺す気で?」
「そこまでは。脅して別れさせようと思って。」
「にしてもさぁ。ちょっとやり過ぎちゃう?」
「はい、今はそう思うんですけど、家に1人でいる時は、何にも考えられなくなって。」
しばらくの間沈黙が続いた。和樹は最初から感じていた嫌な違和感の理由を知って絶句しているのだが、翔もそうだと思う。おそらく信哉も気が付いたはずだ。
翔が腕を組み、下を向いたまま沈黙を破った。
「君さ、しばらく詩織さんに関わらん方がええよ。」
「え?」
「明らかに普通の状態じゃないもん。このまま詩織さんに依存し続けたら、身をほろぼすで。」
「なん・・・で。」
美咲は言葉に詰まった。その途端、ダムが決壊したかのように一瞬で涙が噴き出した。
「いやです!詩織にはあたしが必要なんです!!あたしがいないと、あの子は傷つくから。」
「君の方やろ、詩織さんを必要としてるのは。」
理路整然と言う翔に和樹は肝を冷やした。
「翔、もうそれ以上言うなって。」
「こんな状態放っておいたら二人とも取り返しつかんようになるぞ。」
「せやけど。だからこそ刺激すんなよ。」
和樹は泣く女性にあまり慣れていない。美咲が初めて溜まり場に来て泣いたときも驚いたが、今はそれ以上の勢いだ。
「詩織が苦しい目に合ってる分かってるのに、なんで離れなきゃいけないんですか!」
「そうやって、ずっとベッタリしてるのが詩織さんの為になると?」
「詩織の為?」
「もう大学生やろ。彼氏と付き合うのも別れるのも、詩織さんが決めることや。」
「詩織は別れた方がいいんです!」
「あんたが決めることやない。」
「でも、じゃあ詩織はこのままアイツと付き合い続けてどうなるんですか?あの子は、依存してて気が付いてないんです。一緒にいたら自分のことが大事にできなくなるって。」
「そうや。それが今の君の状態と一緒やねん。」
「そんなこと・・・」
「詩織さんがなんであの男と付き合い始めたと思う?」
「なんでって・・・」
「あんたと距離取りたかったんやと。このままずっと二人でいるとアンタの人生を奪ってしまうからって。お互い自分の人生を生きたいって。今日聴き取りしたとき言うてたわ。」
「そんなこと、詩織がいう訳ない!」
「でなかったら、あんな明らかに胡散臭い彼氏に引っ付いていくか?誰でもいいから相手見つけたかったんやろ。」
美咲は床にへたり込んで、そのまま泣き続けたが、何も言い返そうとはしなかった。
詩織とはまだ直接会っていない。詩織が美咲と距離を取りたがっているというのはもちろん嘘だ。でもそう推測できるほど美咲は詩織に依存している。

「でも私、詩織と離れるなんて考えられないんです。」
美咲は静かにそう言った。
「何もずっと会えないわけじゃない。2人とも落ち着くまで、距離を置くべきやと思う。」
「でも・・・。」
「あの彼氏の事は俺等が何とかする。だから君は詩織さんに会わないことや。」
「分かり・・・ました・・・。」
美咲はまだ床にへたり込んでいる。
綺麗な顔立ちだが、ここまでぐしゃぐしゃに泣くともう分からない。
和樹は翔と2人で今後の話をしたかったが、今美咲から目を離したくはない。
和樹は翔にLINEを送り、目配せで確認を促した。

Kazuki『どうする?美咲さん。』
しょー『とりあえず、今は1人にはできひんやろ』
Kazuki『せやけど、ずっとここに留めとく気か?』
しょー『今日明日くらいはしゃーない』

無言の中で2人がスマホを見ている違和感に耐えられなくなったのか、美咲が声を出した。
「あの・・」
「うん?」
「私に構わず話して来て下さい。もう錯乱したりしませんから。」
そう言うと美咲は這うような姿勢でソファに戻り、座ってからコーヒーを一口すすり始めた。
「じゃあちょっとだけ出るけど、落ち着くまでここにおりや。」
翔はそう言うと和樹に目配せして、外階段の下まで降りた。

「翔、あんな啖呵切ってどうすんの。」
「何が?」
「あの彼氏の事、俺らが何とかするって言うたやん。」
「は!!?そんなん言ったか?」
「言った。はっきり言った。」
「覚えてへん。」
翔はわざとらしくそっぽを向いた。
「そんなん言うて。結構やる気になってきてんちゃうん。」
「んなわけあるかい!大体、このサークルはお前がやるって言いだしたんやろ!こちとら付き合わされてええ迷惑じゃい。」
「まあまあ、そんな無理してツンケンせんくても~。探偵さ~ん。」
「うるさい!」
和樹と翔はおどけた。いつも以上におどけた。
既に日は沈んで生温い夜風が吹いている。
夏休みはまだ半分以上残っている。
和樹は自分の心臓の音が翔に聞こえるかと思った。
軽口を言い合いながら階段を上ると、美咲はまだ大人しくソファに座っていた。
「少しは落ち着いた?」
和樹が伺うと、美咲は小さな声で答えた。
「少しは。ほんの少しですけど。」
「そう。」

コーヒーメーカーの稼働音が再び鳴り始めた。
ふと見やると、翔がカップをもう一つ取り出そうとしている。
「翔吉さん、俺の分も。」
「お前、冷コーちゃうんかよ。」
「今はあったかいの飲みたい。」
「毎日同じことせえよ。」
「優作もコーヒーはホットで飲んでたはずや。」
翔は2つ取り出したカップにコーヒーを注いで、和樹に渡した。
「吹き出すなよ?」

コーヒーの香りが漂うゲーセン2階で、ゆっくりと、でも着実に時間は流れていた。







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