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葬式廃止のご連絡

祖母の死

祖母が亡くなった。
年齢を考えれば妥当なことだし、直近の体調も悪化しており「年は越せないかもしれない」との医者の言葉通りの最後だった。多少の苦しみはあったかもしれないが、長期入院となったわけでもなく、安らかな最後と言っても差し支えないと思う。家族も祖母の死を受け入れる準備はできていた。
唯一想定外だったのはコロナだ。私はコロナをほとんど気にしていない。それでもワクチンは4回接種したし、くだらないと思いながらも建物内ではマスクを着用している。それは日本で生きるための制約であり、無限にすれ違う愛すべき隣人達への配慮からだ。私がコロナを気にしないからと言って他の人が気にしないわけではないし、個人の心情としては気にしないながらも共同体のルールによって行動を制限されることがあるのはわかる。
今回、祖母の病院でコロナのクラスターが起きた。病院は患者が集まるところだし、院内感染が発生しやすい環境だ。私には病院関係者、およびクラスターの発生源となった者を責める気持ちはない。世間は持ちつ持たれつだし、それぞれが適切に行動しても防げない事態というものはある。それでも予想外だった、いや、予想はしていても実感をともなっていないことがある。

いまだに祖母が亡くなった気がしないのだ。

人の死に目に会えない時代

祖母は入院から約2週間で亡くなった。入院先の病院は日常的に通える距離ではないものの、人生の最後となれば何度かお見舞いに行くことくらいは簡単な距離だった。(祖母がもう長くはないだろうという雰囲気は私にも感じられた)
しかし、コロナ禍により一切の面会は謝絶されていた。私だけではなく、両親も含めて一切の禁止だ。つまり、入院した日に見送った祖母の姿が家族から見た祖母の最後の姿になった。
とはいえ、もし面会をしたところで祖母に気力はなかったとも思う。入院の数日前に会話をした時は、心ここに在らず、という印象を受けた。会話ができないわけではないが、すでに会話への興味や、孫への興味も失せているように感じた。コミュニケーションは取れるが、ただ受け答えをしているだけという感じだ。

そして、いよいよ祖母は息を引き取った。
心構えをしていても、人の死はやはり突然なものだし、なんとなく浮足だった気持ちになる。必要があれば病院に駆けつけるつもりだったのだが、祖母がコロナに感染していることが判明した。ここから事態は予想の上を行く対応へ進んだ。

まず、祖母の直接の死因は持病の悪化だ。老衰と言えるのかもしれないが、数日前の検査では感染していなかったコロナウイルスに院内感染していたことが死後の検査で判明した。つまり祖母はコロナで死んだことになる。家族としては複雑な思いもあるが、どこかでコロナ患者、コロナでの病死を線引く必要があるため便宜上の分類については理解できる。
しかし、コロナ患者は死者となっても扱いが違うのだ。誤解を恐れずに言えば、放射性の産業廃棄物のような扱いをされるのだ。

我々は病院を訪れることを許可されず、生前も、そして死後もん病院で祖母に会うことはできなかった。

コロナで亡くなるということ

我々は祖母に一切会うことはできなかった。
これはコロナが謎の感染症で抑え込みに必死だった2020年のことではなく、すでに日々数万人が感染し、居酒屋は大盛況で、旅行も積極的に後押しされている2022年冬の話だ。
祖母は病院で袋に詰められ、コロナに対応している特定の葬儀場へ運ばれた。
祖母が亡くなった翌日には、葬儀の相談をするために葬儀場にて打ち合わせがあった。祖母の眠る3Fの下にある2F控室に通され、コロナ禍での葬儀、"コロナ患者"への葬儀がどういうものなのかを知った。

  • コロナ患者とは死後一切会うことはできない。病院、そして遺体を安置しているこの葬儀場でひと目みることもできない。

  • 葬式、通夜などはなし。できるだけ早く遺体袋、棺に密閉したまま火葬する必要がある

  • お経はあげることができるが、火葬直前に数分の時間があるかどうか

  • 火葬直前に棺の小窓から祖母の顔をひと目みることができる(最初で最後、唯一の機会)

  • 遺骨は後日送り届けるため骨を拾う作業はない。また、棺を密封しているので何も一緒に燃やせない。棺の上に置くことも不可。

こうした葬儀のルールは地域、自治体によって違いもあると思う。そのため、あくまでも一例として聞いてほしい。しかし、ここまで徹底したルールがあるのには驚いた。人間の死というよりは、産業廃棄物を処理している気持ちになる。そこに儀式性はなく、ただひたすら安全に処理することに重きが置かれている。その行為にどれほど意味があるのはか別として。

人の死の消失

私はまだ祖母が亡くなった実感がない。
涙の一滴も流れていない。小さい頃から自分を育ててくれ、今でも日常的に会っていた祖母がいなくなったことを実感として理解できないのだ。祖母のいない家は、彼女がちょっと外出している日常の延長のようだ。

思えば、人が家で死ぬことが減ってきたと思う。

人は畳の上ではなく、病院のベッドの上で死ぬようになった。これはもしかしたら病院で死ねるという一時代の贅沢なのかもしれないけど、現代ほど人の死が見えない時代はなかったと思う。人々は日常からひっそりと消えていく。
人は生まれた瞬間も、死ぬ瞬間も自分ではわからない。気がついたら生まれており、気がついたら死んでいるのだ。しかし、これまでは第三者の視点として確かな生と死があった。

私にはコロナ禍で生まれた子供がいる。私は病院に立ち入ることはできなかったし、父親が参加するイベントも全てが中止されていた。そのため、出産間近の妻が入院し、しばらくすると妻が突然赤ちゃんを連れて帰ってきた。いつの間にか子供が家にいる。妻が旅行から大荷物で帰ってきた。そんな感覚だった。

そして、今、人の死がよくわからない。死期が近い祖母は入院し、そのままいなくなった。祖母の最後の姿、死にゆく祖母を見ることもなく、死んだ後の祖母を見ることもない。ヨボヨボとした足取りで入院した祖母は、骨壷に入った白い砂として帰ってくるのだ。気がついたら実家の両親がハワイ旅行に行っていたというニュースと同じくらい現実感がない。本当にハワイに行ったのだろうか。いや、ハワイは存在するのだろうか。
私の祖母はどこにいるのだろうか。

葬式の廃止

元々信心深い家ではなかったが、これまでは人並みに冠婚葬祭のイベントを行なってきた。それでも、一輪の花も手向けることができず、ネットショッピングで品物が届くように、キチンと密封されたまま病院から火葬され骨になって家に帰ってきた祖母にどういう気持ちで向き合えば良いのだろう。
今、私達に葬式は必要なのだろうか。
葬式は故人のためよりも、残されたもの達への儀式だと言う。しかし、私は残されたという感覚すらないのだ。祖母はまだ入院しているし、どこかに出かけている様な感覚なのだ。祖母の死というリアルな現実に向かい合うことなく、白い砂となった祖母を見ても彼女の死と結びつかない。今葬式を上げたとしても、不登校で通ってもいない学校の卒業式に出るくらい不思議な気持ちになる気がする。葬式の雰囲気があれば私はきっと泣くだろう。だけどそれは映画を見て泣くのと同じなのだ。悲しいから泣くのではなく、葬式だから悲しくなって泣くのだ。
個人的には、今回の流れにそれほど憤っているわけではない。"コロナ対策"を続けることが非常に馬鹿らしいとも思うし、手順、ルールを守る日本人は偉いとも思う。それよりも、数年ではあるが確実に積み上がった葬式のない葬儀がどう世の中を変えるか気になっている。
葬式の費用、手続きが馬鹿らしいとの思いは多くの人に共有される感覚だと思う。宗教の偉大さを感じることも多いし、こうした儀式の全てが無駄だとは思わない。しかし、納得感も意味もわからないまま、見栄と雰囲気だけで維持されてきた葬式文化に一石を投じたとも言えると思う。

コロナ禍が終わり、個人をきちんと弔うことができる様になった暁には心の片隅で思い出してほしい。

私の祖母の死はどうだったのだろうか?キチンと弔われなかった祖母の死はどうなるのだろうか?立派な葬式をあげないと故人は偲ばれないのだろうか。

私は彼女の墓に花束を手向ける。

おばあちゃん、今までありがとう。

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