人生の本番は今から始める
「人生の本番をはじめよう。」
今年に入ってすぐに、この言葉…というか、それらしきお告げのようなものが脳の内側にくっきりと浮かんできた。
人生の、本番を、始める。
「え、じゃあ今までは仮の姿だったのか」と思われてしまいそうだ。
完全にそうとは言わないけれど、結構そうだったかもしれない、と思った。
私は人よりも、現実に現実感を得にくい性質かもしれない。
どういうこと?という感じだけど、
今いる場所や、目に入っている人やモノもある程度は認識しつつ、
同時にそれと同じかむしろそれよりももっと強く、
頭の中に浮かぶものをありありと認識していることも多いような気がする。
「空想にとらわれがち」と言われてしまえばそうなんだろう。
つまり頭が過去か未来や、どこか遠くや自分一人では到底考えきれない規模の世界に飛んでいっているということだ。
しかもその考えたことに対して真面目に行動しようとする性質まで持ち合わせている。
私が「人生の本番」をやれていないとしたら、大きな原因はここにあると思う。
今目に見えている現実よりも、頭の中にある理想や予想の方に従いがちだから、
いつまでも「準備」「計画」ばかりで、「本番」はなかなかやってこない。
考えてみれば、
自由な時間が欲しい欲しいと思っていて
いざ時間ができた!という時にしていた「やりたいこと」は、
実は「やるべきこと」だったかもしれない。
未来の自分が困らないように計画を立て、
タスク化したものの中で、一番初めにやれること。
それが必然的に優先順位の最も高いことになるし、
自動的に私の「やりたいこと」になる。
一見正しいことのように思えるけれど、
そんなことで1日が、1週間が、一年が終わってしまうと、
「やりたいこと」の算出方法(?)って
そんなんで本当に合っていたのだろうか、と思ったりする。
というか「やりたいこと」って「算出」するもんではないのでは?
今「やりたいな」と思うこと、今やればいいじゃない。
いつかやりたいな、と思っていたこと、今やればいいじゃない。
こうあれたらいいな、と思っていた姿に、今なればいいじゃない。
…なんて、大切なことに気づけているようで、
言葉で言うのだけは簡単だ。
実際に「じゃあ、やってみよう」と行動して思ったけど、
人生の本番をやるって、すごく難しい。
泣きそうなくらいに、難しい。
なんでかって
好きなことだけで食べていけていない自分も、
本当に大切な人の前で素直に歌えない自分も、
鏡に映るすっぴん眉毛ボサボサの自分の姿も笑、
全部、本番だと思わなきゃいけないんだから。
私はいつだって私の人生という映画の主人公で、
私という観客の視線を100%浴びながら生活せねばならなくなった。
今が本番ということは、私が今まで頭に思い描いていた「本番」を
今、やらなければならなくなった。
それで、戸惑うことが多くなった。
「やるべきこと」が本当にやりたいことでないのなら、
「やりたいこと」って一体何…??
わからなくなって、唐突に人生に意味が感じられなくなって、苦しくなった。
私は今までどれだけ
「今は準備段階であり、仮の姿だ。」
という無意識に決めつけた自分像に甘えていたんだろう。
「今はその時じゃない」なんて心の中で言って、
自分の心に誠実にならずに
他人の放った言葉には忠実になってしまっていたんだろう。
「いつかはきっと…」という希望を追いかけて生きることは
生き生きしているように見えて、
「でもその”いつか”はいつ来るの?」
「”いつか”が実現してしまったらどうするの?」
「じゃあ”今”は一体なんなの?」
という問題も孕んでいる。
だから、「いつか」なんかじゃなく、「今」を本番にしようって話なのだけど、そんな単純にはいかない。
人生の本番をやるって、難しい。
自分に誠実でいるって、とてもとても難しい。
今までの計画が無駄になるかもしれない。
お金がなくなるかもしれない。
人に迷惑をかけるかもしれない。
人に嫌われるかもしれない。
本当は全部自分の人生を生きるために基本的なことなのに、
怖くて手放せないことは山のようにある。
かといって日々表面を取り繕って外界と接していては、
過去に何度もあったように、一時的に外の世界への扉をバタンと閉めて、
自分ひとりだけの時間を要することになる。
そこでだけ自分に誠実に素直になれるし、
エネルギーがチャージできる。
エネルギーをチャージして、また意気揚々と外界へ出ては、
知らぬ間にまた傷ついて、バタンと閉めて、と同じことの繰り返し。
しかもそんなことを繰り返しているうちに、だんだん外向きの自分が
自分じゃないみたいで、怖くて、大嫌いになっていた。
外界で全く「本番」をやれていない、確固たる証拠じゃないか。
どうしたらいいんだろう。
外に向けて自分の中にある「好き」「嫌い」をはっきりと表現することは苦手だ。
表現することが苦手というより、自分の内側ですら白黒つけたくないのかもしれない。
それは例えば、「カレー派かシチュー派か」みたいな単純な話じゃなく、
一般的には考えないところまで考えてしまっているからこそ生まれるテーマだったりするから、
表現する機会がそもそもなくて、自分の中でうやむやになる。
だけどそのまま生活すると、確実に自分の「こうしたい」の方が折れる場面が多くなって、
やっぱり最終的には扉を閉めるしかなくなってしまうんだよな。
折れてしまうのは、実は自分でも自分の「こうしたい」を大切にできていないから、というのはあると思う。
というか、「今は仮の姿で…」などと考えているうちは、できなくて当然だと思う。
だけど自分のために、自分に何度でも言ってやりたい。
今が、本番なの。
そこで「嫌です」「これがやりたい」と言わなければ、
いつ私は私になれるの??
そう自分にすらはっきり言えないのなら、
自分の中の「うっすら」「ビミョ〜」に感じていることこそ、
救ってあげるしかない。
「結構前に買ったにんじん使っちゃいたいし、安く手に入れた玉ねぎもたくさんあるから今晩はカレーにするかシチューにするか〜…(というか本当は市販のルーとかじゃなくお高めの手の込んだオーガニック系のお食事が食べたいわ…そのうちね…)」
と思ったら今すぐキッチンから離れて近くで営業しているそういう系のレストランを調べてそこへ行きなさい!!笑
なんて大袈裟かもしれないけど、
私たちにとって、大事なのはカッコ()の中だっていうのは間違いないと思う。
だってにんじんを腐る前に使うことよりも、
お安く仕入れた玉ねぎを有効活用することよりも、
そうやって節約生活をしてお金を貯めて「いつかお高い料理を食べる(いつ?どこで?何を?なんにもわかっとらん)」ためになんとなく備えることよりも、
そのうっすら思っているカッコの中を
”今”やることの方が、自分にとって大切なんじゃないの???
これは例にすぎませんが。
そういうことを、訓練だと思ってちょこちょこ叶えていこうと思った。
それが、「人生の本番をやる」ことにつながるのかなと。
これは、現実に現実感があまりなく、頭の中の壮大な世界の方にフォーカスしがちな性質だからこそ、
そこを無視せずにパッと今やるみたいな工夫をすると、私たちは幸せになれるんじゃないかなと思うのだ。
周りから見たら突拍子もなかったりするけどね笑
でもいいんだ。
それと、今の自分を認める、
できれば、「愛する」ところまでいきたい。
それはなんか変なプライドがあるみたいな
心理学的な「自己愛者」になることではなくて。
そもそも変にプライドが高いってことは
その高い条件を満たしていないと自分を認めないということだから
本質的な「自分を愛する」ではないと思う。
なのに外側から「自意識過剰w」「自己愛乙」と言われたりするから
ますます戸惑うと思うんだけど、当たり前だと思う。
そうじゃないから。
じゃあどうやったら今のダメダメな自分の姿を認められるんだって話になるけれど、
これも、カッコの中の方にちゃんと応えることで、許せるようになっていくのかな。
「あー眉毛ボサボサだしニキビできてるしダメだわ(でもその顔を整える時間があるくらい早起きできてる自分って天才)(ゆうて土台は綺麗なんだよな)(そんなことより今日もより良い未来に向かって行動しようとしてて自分偉すぎ)」みたいな?笑
ダメだーって思っている時って、結構表面しか見れてなかったりするので。
でもそれは疲れていたり余裕がなかったりするからそうなるだけであって、私たちの本質はカッコの中の方なんですよ。
ニキビができていたら、「ニキビができていること」にフォーカスして「ニキビを消して解決」する道を目指すのではなく、もっとズームアウトして現実から離れちゃっていいんだと思う。
本質的に全体の方が大事なのだから、それは「現実逃避」にはならないんじゃないかな。
そういう全体像の自分を愛せたら、もうそれでいいじゃん十分じゃんって思う。
あとそうしていくうちに、カッコの中にさらにカッコが見つかったりするので、大変です。笑
え、まだあったの?自分どんだけわがままじゃん。
とか思ったりするけど、
自分にそれをいうことは外側からの「自己愛乙」と
やってること一緒になっちゃうから禁句なのだよね。
それ見れるの自分しかいないから。
そうやってカッコの中が深掘りされていくことって、
どんどん言語化しづらい領域に近づいていくから戸惑うんだけど。
でも唐突でもいいからそれを「今やる」をするのが、
人生の本番をやるのに必要なことみたい。
長くなっちゃったけど今日はここまで。
お読みいただきありがとうございました。
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