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”幸せとは何か”をずっと考えてきて、今思うこと
「私にとって幸せとは何か」
「幸せは何から生まれるのか」
表面的には目を背けながらも、
自分にずっと問い続けることを大事にしてきた気がする。
この文章では、「幸せ」について真面目に考え始めた学生時代から今、そして未来こう思っているだろうなという予想まで含めた自分の考えを綴りたいと思う。
ある程度厳選して書いたつもりでもちょっと長くなりましたが、よかったら。
🌿
大学4年生、就活生だった時。
周りが、どこの業界、どこの企業だと年収はどれくらい見込めるかとか、福利厚生は、などと話題に出す中で、私はずっと、就活時のそもそもの視点でずっと誰かと議論したかったことがある。
それは、幸せとは何から生まれるのか、ということだった。
だってそれが就活する時の全ての基点となることでしょ
みんな自分が幸せになりたくて就活してるんでしょ
そう思っていたし、
私は人を幸せにして、自分も幸せになれる仕事を選びたい
と思っていたから。
だけど誰とも話せなかった臆病な私は、自分だけの哲学ノートにその時考えていた「幸せとは何から生まれるのか」について、図式化して書いてみた。
「いずれきっと変化していくのだろうけど、今のところはこう考えている」という前提で。(ただ、それは自分が限界まで考えた事でもあるので、当時の自分にとってはほぼ絶対みたいなものだった。)
だから、今こうしてみると、「いやいやいや…!」と突っ込みたくなる所もある。
図をそのまま乗せてもなかなかに意味不明だと思うので、文章化してお届けします。
拙くめんどくさい雰囲気ですが、その後の結論に繋がるので、良かったらお付き合い下さい。
(何度も言いますがツッコミどころ満載です)
2015年6月
<人の幸せについて>
人の幸せの素となる要素は、3つに分かれる。
①他者依存(子供や孫など誰かの幸せを自分の幸せとする)
②自己肯定感(自分を認める)
③悟り(自己を世界に溶け込ませ、見えなくする)
この3つは、「簡単度(実現がどれだけ簡単か)」「幸福度(幸せレベルがどれだけ強いか)」でレベルをつけることができる。
①他者依存
簡単度 ★★★
幸福度 ★☆☆
理由:自分は努力をしないので、実現に力を用いないという点で簡単度が高い。が、結局は他者なので、幸福度は低い。
②自己肯定感
簡単度 ★★☆
幸福度 ★★☆
理由:努力が必要なので(※詳細については後述)、簡単度が下がる。ただし、自分が手に入れたという実感から、幸福度は比較的高い。
③悟り
簡単度 ★☆☆
幸福度 ★★★
理由:何かしらの信仰心に基づき、勉強をしたり修行を積まねばならないので、簡単度は低い。自我を無くすことにもなるので一般人にはなかなか難しい。ただ、絶対的な世界に入り込み、永遠の安心を得られるので、幸福度は最高。(よく知らないけど、僧侶みたいなイメージ)
《まとめ》
①~③を並べた時に、①に行くほど簡単度が高く、幸福度は低くなる。逆に③に行くほど簡単度が低く、幸福度が高くなる。
①の「他者依存」はなるべく避けるべき。他者に依存することになるので、幸福度は低いか、ほぼ無いに等しいもしれない。依存がエスカレートすれば反逆を受けるというリスクもある。では逆に③の「悟り」がいいかと言うと、世界中全ての人や自分が…、と思うと現実的ではない。
よって、多くの人は②の「自己肯定感」を求めるべき。誰かに依存せず、特定の信仰も持たないのであれば、この「自己肯定感」を高めることがいちばん健全で現実的な幸せの求め方である。
《自己肯定感について》
ではさらに、自己肯定感は何から生まれるのか。
これは2つに分かれる。
①他者からの承認(褒められる、賞をもらうなど)
②自己実現(自分で努力し、何かを成し遂げる)
→①ではまた他者に依存してしまう。なので、②の「自己実現」を求めて生きていくことが大事。
《結論》
自己実現こそが、人を幸せにするのである。
…ちょ…マ…
て感じですけど。笑
でもこれが、22歳の私がたった1人で必死に絞り出した幸せについての定義で、結論だったわけです。
もちろんこれは自分の経験に基づいている。
特に「《自己肯定感について》」の話からは、自分がそれまでの人生の中で、何があった時に幸せだったか?を振り返って得た考えだ。ここが1番のツッコミどころだと今の私は思うけど。
当時の私にとって、受験に合格したことや、部活のオーディションをパスしたことなどが、それまでの嫌だったことなど全て消し去るような、幸せだと思っていたわけである。
(あれ、それって「①他者からの承認」も入ってるじゃん、とここで気づく)
今これを読んでくださっている方や、特に自分の生きづらさや特質に最近気づいたり、休んだり、回復しようとしたりしている方、もうお気づきだと思うんですが、
この22歳の時の私の考え、なんか絶対足りないものありますよね笑。
それは人によって様々に表現があると思うけれど。
色々思うけど、今の私として1番思うのは、せめて
「自己肯定感を生むもの」の枠の中に「自己受容感」というのを入れて欲しかった、ということ。
自己受容感。
別に出来なくても、いいんだよ。
自分そのままで、いいんだよ。
という考え。
思い返してみれば、22歳の就活生だった私には、それが完全に抜け落ちていた。
おそろし。
🌿
私が当時内定を頂いた企業の最終選考にて。
私は、上記の「幸せについて」の理論を、全ては語らなかったけれど、もとにして話を構成した記憶がある。
「自己実現こそが、人の幸せをつくるんです」
何度も真剣な顔で、そんなことを言った気がする。
目の前には、大人が3人。
大の大人3人、誰か一人くらい、指摘してきても良かったんじゃない。
「自分のありのままを認めてあげることも、幸せに繋がることなんだよ」と。
ねえ、みんな寝てたの?笑
気づかなかった?
それとも、知らなかった?
大人なんだから、そんなことぐらい気づいてて欲しかったよ。
…いや、違う。
たぶん、そう指摘されたとしても、当時の自分は受け付けなかっただろう。
そんなありふれた優しい言葉、日々の生活の中でたくさん目にして、耳にしてきたはずだ。
(当時は確か「ありのままで~」と氷の城を駆け回る女王の物語が流行った時期だった気が)
それを拒否してきたのは、紛れもなく私自身だった。
いや、聞こえたけれど、意味はわかったけれど。自分の中にストンと落ちてはこなかったというか。
人にかけてあげたい言葉ではあったけれど、自分(特に就活してる当時の自分)にはかけられなかったというか。
そんな表現が適切かもしれない。
あとになって、色々頑張って、違和感を沢山感じてはじめて、自己受容感の大切さに気づけた。
ボロボロになって、限界が来て、逃げ出してはじめて、自己受容感の大切さが納得出来た。
「幸せとは何か」
哲学、心理学、宗教、スピリチュアル…色々な観点から既に答えが出されていると思うけど
結局自分のなかで納得しないものは、受け入れられない。少なくとも私は、そうだった。
自分の経験や、それに伴う考えが追いついていないと、腑に落ちない。
あくまで私の考えではあるが、結局は幸せについての考えを深めるには、自分の経験を増やすことがいちばんだったなぁ、と思う。
もちろん、哲学や心理学などから既存の理論を学ぶのも、大事だけれど。
でもその理論が自分の中に落ちてくる時って、やっぱり経験と結びついた時だと思う。
それは何も、私みたいにボロボロになるまでの経験をすべき、というわけではなくて。
逆に自分に正直に生きてた方が、早く答えにたどり着けるのかも。
でも結局は、自分に正直に生きていくと、どこかでつまずく時があるんだろうと思う。私の、限界が来て逃げ出した経験もそれだと思う。誰だって元々、何かしら本音を隠して生きている。それを隠さず生きていく方向へチェンジしようとするのだから、多少の大変な経験というのは、逃れられないことなのかもしれない。
ここでまたひとつの結論が出そうだけど、自分の欲求に素直に従って行動することも、幸せに繋がることだと思う。ただ、そうとわかったからと言って今から全てのタガを外して自分の欲求に従いまくれるかと言ったら、そうでは無いですよね。変化に苦しみは付き物というか。だから、私はよく、自分の変化はグラデーションを描いているなあと、思う。どうすれば幸せになれるか、頭ではわかっている。でもいきなりそこに飛ぶんではなく、目の前のことからひとつずつ変化を起こしていくしかないよなぁ、と思っている。
🌿
今は、自分の考えられる範囲での「究極の幸せ」というのが頭に浮かんでいる。頭に浮かんでいるだけなので、言葉にするのが難しく、上手く伝わらないかもしれないけれど、頑張って自分の言葉で表現してみる。
今思う「究極の幸せ」とは、自我を手放すことで得られる、統一の感覚。三大欲求はとりあえず生きていけるほど満たされているとして、その上の「自分が」という気持ちが幸福から遠ざかる原因なのだとしたら、それを手放すことで幸せになれるという考え。太陽があり、水があり、命が芽生えられるこの世界は既に満たされているから、その世界と自分を切り離さず統一することを第一とすること。自分という人間は、他の人間と仲間であり、同じであるから、自分の欲求はみんなの欲求。みんなの欲求は自分の欲求。自分を世界の一部と感じて生きていくこと。既に満ち足りている、と感じること。
なかなかに宗教くさくなったが 笑
死ぬ間際ってたぶんこんな感じに考えるかな、とイメージしながら書き出してみた。究極的には死ぬ間際にある人の方が幸せについてシンプルに考えられてそうだなと思って。シンプルであるほど、宗教臭くなる気がするんですよね。不思議と。
22歳の時に考えた幸せについての「③悟り」に近いかもな、と自分では思う。あの時はあんまりにも遠く、非現実的に思えたけれど、今は少し近くなってきた気もする。
そして上手く説明できないのは、まだ自分の中に落ちてきていないから。
上記の「究極の幸せ」は、自分が色々学んだり、大人の声を聞いたりする中で、将来はきっとこんなことを幸せとしているんだろうな、と予感していることでしかない。
自分の人生経験は、まだそこまでに達するほどのものではない。
それどころか、「自分が」という思いで実現したいことが、まだ山ほどある。
そう思えるってことは、まだそれを実現しようとする力が残っているということかもしれない。いい意味でも、もしかしたら悪い意味でも、若いということかもしれない。
よく分からないけれど、でもやりたいことがあるのは確かで、もちろん、そのために今は生きていきたい。自我を失わずに。まだ、自分のこと知れたばっかりで、自分と仲良くなれたばかりだから、なおさら。
それでこの先、その思いを実現したり、実現できなかったり、躓いたりして、また色々な経験を重ねて生きていけば、
何となく頭の片隅に置いてきた「究極の幸せ」が輪郭を帯びてくるのかもしれない。
し、また全然違うものが飛び出してくるのかもしれない。笑
わかんないね。
皆さんの思う「幸せ」って何ですか?
どんな物が自分の幸せをつくると思いますか?
面と向かってじゃ、なかなか語れないのに、需要がある情報ランキングTOP10には入る部類の話だと思います。笑
よかったら、教えてください( ˘ω˘ ).。oO
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