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私はもう、「いい人」なんかじゃない。

私は敏感であるわりに、人の起こすことに対してすぐ怒ったりしない。
それを見た人に、よく「心が広いね」と言われる。

確かに私の思考と行動を客観的に見ると、「心が広い」と形容するしかないのかもしれない。

だけどそう言われると、違和感を感じると共に、焦っていることに最近気がついた。あれ?もうちょっと自分を主張しないと損だったかな?と。笑

でも考えてみれば、本当に心が広かったら会社を2度も辞めないわけで。そう考えると、私は別に「心が広い」わけではない。
ちゃんと自分のことを見ていけば、多くの人とは違うところに、譲れない価値観がちゃんとあるのだろうな、ということがわかる。

自分の性質を知るようになってからは、もう「向上心がある」とか、「真面目」だとか、「優しい」などといった、一般的な世界観からの評価だけで自分を認識しなくてもいいんだ、と思えるようになってきた。

これまでの私の場合、そういう一般的なレッテルを自分に貼っては社会を渡り歩いてきた(そうでしか渡り歩けないと思い込んでいた)けれど、
今後は単純に「いい人」を心の底から自分の強みと思ってウリにして生きていくことはできないな、と感じつつある。

いや、今までだって、別にできていたわけではない。「他に何も持たないからせめて『いい人』でいなきゃ社会でやっていけない」と思い込んで、自分の中のそうでない部分を責めながら、必死で仮面を被って(表だけでなく、自分の心にまで)やってきてただけなのだ。

だけど、今は違う。

「私のこと、なんでも許してくれる人だと勘違いして接してきたら、痛い目見るよ」

そういう少々キツイ目も持ち合わせている。
何かあったら刺せる防御用ナイフだって心に装備してる。

優しい言葉を求めてこれを見てくださっていたら、ごめんなさい。
今日はずっとこんな調子でいきます。(ただ、悪い結論にはならないです。)元気がある人は、読んでも大丈夫だと思います。


たぶん、未来のもっと成長した私から見たら、今の私は少し過激化している時期なのかもしれない。

赤ちゃんのイヤイヤ期とか、子供の反抗期とかがあるように、
必要な時期なんだと思う。

本当の大人なら、どんな言葉にも笑顔で冷静に、客観的に対応するのかもしれない。
けれど、自分についての解像度が増して、自分を守るべきとわかった今、今まで自分を守るために必要な部分を鍛えてこられなかった人は多少慌てふためくのは当然で、常に平坦な気持ちを保つことは出来ない、ということはどうか許してもらいたいと思う。

🕊

最近、自分の中にヤクザの目を借りることがある。
ヤクザと言っても、接したことは無いのでイメージである。どんなイメージかというと、自分の確固たる目的があり、常に揺らがない。揺らがないから、誰かに何かを言われても、取るに足りないことと無視して、自分の目的を果たすための行動をとり続ける。強いオーラを発している。オーラを発せられるのは、自分のいる世界線と相手のいる世界線が違うと分かっていて、自分はただ何にも影響されずに自分を表現していればいいのだと思えるから。そんな感じのイメージ。

本当はヤクザじゃなくてホトケがいいのかもしれない。こう言うと別の方面から怒られそうだが、ヤクザの目とホトケの目は似ていると思う。もちろんホトケにもお会いしたことがないのでこちらもイメージとなるが、私の中でヤクザ属性の人とホトケ属性の人は、なんだか目が似ている気がする。ホトケのイメージもある意味ヤクザと同じ。絶対に揺らがない何かがあるから、強く、どこか悟りを開いて別の世界にすらいるような目を持っている。(優しくて有名な人がたまにどこか怖く見えるのは、このせいかもしれない)

ここで言うヤクザとホトケの違いは、この世界への反発エネルギーを持ち合わせているかどうかだと思う。まだ自己防衛レベルがヒヨっ子で全体を見ることができず、襲いかかってくる物事に対してその都度対応するしかない私にはホトケの目は扱いきれず、やっぱりヤクザの目を借りるしかない。

しかしそれは、ありがたいことにものすごく役に立っている。

私は私の感性を守るためにヤクザの目を借りてくる。すると、自分の細かい要望を口にできたり、思ったことをそのまま表現したりできる。

そうすることで周りの人が張り切って良い仕事をしてくれたり、すごくいい意味で面白がってくれたりする。すると、自分の「こうしたい」という気持ちや感性というのは意外と周りに喜ばれるもなんだな、と感じられるようになってくるのだ。

今までそれが出来なかったのは、否定されるのが怖かったから。でも今はそんなことしてくる悪者には、ヤクザの目を使えばいい。ヤクザはヤンキーと違ってすぐに絡んでエネルギーを消耗したりはしない。否定された、つまり自分の庭を荒らされたのだから、自分という権力を背に自分基準で冷静に制裁を行い、場合によっては落とし前を付けさせればいいわけです。…というとなんか恐く聞こえますが。実際にするしないは置いておいて、いざとなったらそうすればいいんだと思っておけば、表現の安心は確保できる。

そもそも、そのやりたい表現というのが別に攻撃的なものでなければ、無差別に人を攻撃する悪人とは違うわけで、自分の中にちょこっとヤクザを借りてくるくらいはほんのライフハックではないかと私は思う。

もう少しマシな比喩表現はあるとは思うけれど笑

そしてこのことは問題でも何もないと思う。

私は少し強くなれた。
それは今までの、無理やり外向的な自分を引き連れたり、あえて自分を興奮させたりすることで作り上げていた、中身が空っぽの強さでは無い。
きちんとした自己認識とそれに伴う他者との区別という土台の上に、強さがある。

「心が広い」「優しい」「前向き」そう期待の目を向けられることもあれば、
自分の考えを発言する度に「頭でっかちじゃない?」「上から目線かも」「非現実的では」と言われたりする。

「確かにそうだな」と思いつつ、「全然違うね」という思いも今は強い。

視点が違うだけなのだ。
見てる世界が違う。

優しいのではなく、自然の摂理に合理的なだけだよ。

みんなが普通に行っている脳の動きと同じように脳を動かせば、こういう思考になるだけ。

勝手に浅い思考で判断を下してくれるなよ?

そうして自分と他者の違いがわかり、本当の意味で強くなれて初めて、新しい優しさや寛容さも生まれてくる。視点が増やせて、より多くの人のことを理解できるようになる。

🕊

今まで、よくいる「好きなように生きてますが何か」と強く居られる感じの人が、憧れつつも怖かった。そういう人の強い口調からは「私は好きなように過ごすから、あなたも自分の意思で行動してね」というある意味とげとげしい視線を感じていた。「自分の意思ってなんだろう…私はただ人に合わせて動いてるんじゃダメなのかな…それをしていれば喜ばれたのに…そんな事言われても…」と絶望的になったりした。

だけど今、自分もその強い口調の人の気持ちが分かる。もう、「いい人」なんかじゃないんだ、私は。でも、前の私みたいに絶望してしまう人がいることも知っている。たくさんの視点が、私の中に内包されている。

それはきっと私だけの事じゃなくて。ある程度人生経験があればみんな多面的になっていくんだろうと思う。
「いい人」である私も、そうでない私も、本当は認められるべき私なんだ。

それを分かろうとしてくれる人は、意外といることも最近わかった。同じ視点で見られる究極の共感者ではなくても、理解しようとしてくれる人ならいる。

だから、なるべく話してみる。孤独にならずに、勇気をだして主張したり、表現したりしてみる。
そうすることで、次の世界が開けるんだと思う。

今の私に大切なのは、それかもしれない。




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