眠りから覚めて思うこと わたしはどこにいるのか
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最近、夢の中にいる時と、目が覚めてから現実に引き戻された時の「重さ」みたいなものが、全く違うように感じる。
現実的なことを言うと、花粉症の薬を飲み始めて、睡眠が長くなり出した影響かと思う。
「重さが全く違う」と言ったが、どちらが重いとか軽いとかではなく、「重さ」の種類が違う。
目が覚めた瞬間、夢の中で囚われていたことからぱっと解放される一方で、いつも考えていたことがずしりと戻ってくる感覚。
その切り替えを普段より一層はっきりと感じるのだ。
その感覚は私にとって特段いいものでも悪いものでもないわけだが、
そんな中気づいたことがある。
まず、私が夢から現実に戻ってきた時に最初にしていることは、自分の周囲の世界と自分とのぶつかり合いから、自分の輪郭を探すことだ。
どういうことか。
夢の中で私はある意味、主観だけの生き物だ。まず私の感情があり、それに合わせて世界が変形していく。
だけど現実の世界では、私はほとんど、私以外の何かがないと私を認識できない、というのがある気がする。
例えば、周囲の環境にどう体が反応するかで、自分を認識する。
あったかい、寒い、足の先が冷えている。靴下を履こう。足の形。
もっとよくあるのは、たくさんの人たちの中に、自分を探すこと。
世界で何が起こっていて、
誰の、どんな言葉に共感するのか。救われるのか。
逆に嫌な思いをするのか。
何を真っ先に考え出してしまうのか。
そうしているうちに揺るぎない自分がようやく見つかり、ハッとして、たくさん泣いて、抱きしめてあげることもある。
わりといつも、そうやって、生きている。
「自分探し」を揶揄する人もいるが、周囲と自分の接触を見ずして、一体どこに「わたし」をみているんだろう?
もうひとつ、気づいたこと。
目覚めた瞬間、「いつも考えていること」が帰ってくる感覚がある。
日々のルーティーンや、考え事、悩み事。
だけど”帰ってくる”ということは、もしかしたら”帰ってこない”もありえるかもしれない。
今日という日が深まり出せば、私が何者かなんて考えるまでもなく固まっているのに、
実はそうなる前のある瞬間は、そこから如何様にも変形しうる脆さがあるということ。
その奇跡みたいな狭間に、時々行ってみたいと思うことがある。
そこに行っても、わたしの体は消えて無くなることはないだろうし、きっとそれもわたしだから。
例えば、「いつものあれをしなきゃ」「だってわたしは母親・父親だから/〇〇社の社員だから/〇〇(職業名)だから」
「これをやっておきたい」「心配だ、不安だ」「だっていままでこうだったから」「だって未来がこうなるかもしれない(と過去からずっと思ってきた)から」
過去から未来へ、一直線に自分を貫いてきたそれが全部なくなって、
「やるべきことなんてなんもない」になったら、私はどうなるのかな。
きっと、「寒いから靴下を履こう」とかは思うんだろう。
焼きたてのパンを食べて幸せな気持ちになるんだろう。
そしてそれは紛れもなく私なんだろう。
生きていていい、証なんだろう。
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すごく幸せな夢を見たのに、なんの内容だったか全く覚えていないことがある。
幸せであるという肌感覚だけが、残っている。
そんな時、私の幸せは消えて無くなってしまったと言えるのだろうか。
いや、「こんなに幸せなのにそれはないだろう」と思うことがよくある。
焼きたてのパンを食べているから幸せ
壁と屋根のある家があるから幸せ
今日を生きるお金があるから幸せ
毎瞬はそう思うかもしれないが、実は全部「幸せだから幸せ」なのかもしれない。
つまり「わたしが幸せを感じられるから幸せ」なのであり、
全部「わたしがいるから幸せ」なのかもしれない。
ということは「わたし」がなくなったら不幸になるのかとも思ってしまう。
でもよく考えて欲しい、「わたし」がなくなったら不幸も感じないだろう。
なにもない。
じゃあ「不幸」はどこからくるのかって、本当はどこにもない。
「不幸」を感じることがもしあれば、それは「わたしがいる」ということだから、実は幸せなのかもしれない。
そう考えると「不幸」なんて幻想なのかもね。
「わたし」がなくなるなんて不安も、感じる必要がないのかもしれない。
過去から未来へわたしをずっと貫いてきたことがなくなっても、わたしはわたしなら、
今この瞬間に、あったかいとか寒いとか、
誰かが何かを言って、嬉しいとか怒りを感じるとか、
そうやっていつものように自分を、周りから探していけばいい。
毎秒毎秒をそんなふうに生きることの、何がおかしいのだろうね。
そう考えると、「わたし」というのはこの体の内側だけじゃなく、
わたしが見て感じているこの世界だとも言える。
「世界が、わたしだ」と見ることもできる。
それはなにも「わたしが世界の支配者だ」ということではなく、
わたしの思うままにならないこの世界も、すべてひっくるめて、愛おしい「わたしが生きている」証拠なのだということ。
時にそこに体当たりして痛みを感じる輪郭に「わたし」が表現されるが、
別に何もしなくても、表現されないだけで、「わたし」はいる。
だって世界はそこに見えて、あるのだから。
わたしは世界の創造主ではないけれど、
「わたしの世界」の創造主であることは間違いない。
だからそんな愛おしい世界を、どうか終わらせないでね。
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わたしはどこにいるのか。
わたしは今にいる。
人は過去にいることはできないし、
未来に行くこともできないから。
タイムマシンが発明されて未来に行ったとしても、
わたしがそこを体験する限りそれはわたしの”今”になる。
そこからマシンで本来の今へ帰ってくると、未来にいたわたしは過去のわたしになる。
わたしは”今”しか存在しない。
「目覚めた瞬間に帰ってくる私」は、実はほとんど過去のもの。
「〇〇社に勤める」と決めたのは過去の私。
「未来こうなるかもしれないから今からこれをやっておかなきゃ」と考えたのは過去の私。
起きた瞬間に、それを「思い出した」だけ。
”今”のわたしは、本当は違う。
まったく新しく生まれ変わってしまった。
今、通勤路から逸れてその足をお気に入りのカフェに向けることもできる。
ずっと考えていた「未来こうなるかもしれない」も考え直していいし、
「これをやっておかなきゃ」を放棄するのも自由。
今ってやばい。なんでもできちゃうから。
カフェに行ったらきっと、会社から電話が来る。
なんて答えるか。それは「わたし」が考えることじゃない。
それに対処するのは、対処しなければならない「わたし」になった時だけ。
その「わたし」が、”今”どうしたいかを考えて、淡々と対処するだけ。
過去のわたしを責めたって、過去の私はもういないんだから、意味がない。
わたしが〇〇社の社員じゃなくなっても、
〇〇君のパートナーじゃなくなっても、
表現者じゃなくなっても、
女をやめても、
人間をやめても、
わたしは今ここにいて、
逆にいうと今にしかいなくて、
誰がなんと言おうと、わたしが何かを感じる限り、
わたしの世界の創造主なのだ。
だから今はただ、わたしをやればいい。
”今”本当にわたしだったか不安になったとしても、考えるのは、それが過去になってからでいい。
その時は、それも私だったことを認めざるを得ないから。
同時に、それは過去の私であり、”今”のわたしはまったく新しいという現実があるだけから。
世界はわたしだから、必ずしも私を攻撃してくるものでもない。
誰かに何かを言われたって、それをそのまま自分にぶつける必要もない。
過去のわたしに振り回されず、”今ここ”の世界をつくるのは、わたしだ。
そして何を感じても、他の誰かになることはない。わたしはわたしのままだ。
眠りから覚めてすぐは、そんな無敵感がある気がする。
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