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「しなくて済んだ」失敗をした意味

こんにちは。岡崎です。

失敗って、ありますよね。失敗って、いやですよね。
特に、過去において、時と人の運で成功したことがあり、同じようなタスクに再挑戦する際に、これまた偶然としかいい得ないほど小さな要因が元になり失敗をしてしまうと気持ちが沈みます。
結局自分は成長していなかったのかと思います。一回目は偶然に誰かとの縁が繋がって上手く物事が運んだという場合には、なおのこと自分一人でこなすのは土台無理だったのだな、とぼこぼこに凹みます。

人には得意不得意があり、1人の人間がすべてのスキルをカバーすることはできないからこそ、コミュニケーションが大切だ、という話になります。

しかし、コミュニケーションなんて上手くいかないこともザラですよね。前上手くいったコミュニケーションが今回上手くいかないこともある。自分の常識が否定されることもしばしば。

特に、一度成功を経験しているのに少しの条件変化が加わった二度目で失敗すると、精神的には大分来るものがあります。チームで課題に挑戦するという類のものだった場合、前回の自分の成功は、自分のお陰とか関係なく、チームにいた他の彼らの能力による成功だったのだ、と気づかされます。

で、器用な人というのは、二回目が始まった時にそれに気づくと、周りと上手くコミュニケーションをとって、協調性でもって自分のスキル不足をカバーして二回目も成功に導くことができます。

そして、一度成功したのに二回目に失敗した人、そして二回連続で失敗する人には、能力も無ければ協調性もない人という烙印が暗黙のうちに押されます。二回連続で失敗するのも苦いですが、一度成功している場合は、自分の能力が減少している、または、他人と対話し良い関係を築くことに失敗しているということで、更に悔しい思いをすることになります。

この成功→失敗のパターンの辛いところは、失敗→失敗や失敗→成功のパターンと違って、二度目の挑戦における失敗が、全く為にならない無駄な経験になってしまう事です。
例えば高校受験に成功し、大学受験に成功し、就職活動に失敗したら、就職活動の失敗がすべて自分の能力の不足とその期間の無駄を示すような気がしてしまいますよね。高校と大学に入る節目では成長していたのに、大学生活は無駄にしてしまったのか、などと思い悩みます。同じとは言わずとも、これは人類の生活という営み全てに共通する経験なのではないでしょうか。そういう「無駄」をしてしまった悔しさ、辛酸を舐めさせられた感覚というのは強く記憶の隅に残りますよね。

じゃあこの「無駄」経験には何の意味があるのか。これは僕にも分かりませんが、気持ち的に、ひとつの答え(の萌芽のようなもの)を掴んだような気がしています。

思うに、この種の無駄(かつ忌まわしい)経験は自分という人間を正しく把握する機会なのではないでしょうか。例えば、一度目はこういう支えや協力があって成功したが、二度目は独りで挑戦したため訳も分からずに失敗してしまった。というような悔しさがあれば三度目がよりうまくいきやすいと思います。よく言えば三度目の正直が待っています。多分。いや?本当の所は分からないけど、そう信じたいなという話なんですけどね??

自分が何度も連続で、当たり前のように成功しているとしたら、それはその成功の要件をよく知り尽くしているという事でしょう。それは良い事です。

何度も成功しているけれど、自分一人ではできない、他人の支えが必要不可欠な状態で成功しているのであれば、それは本当に自分の功績とは言えません。悪く言えば、寄生虫やコバンザメと称されるようにそのチームなりなんなりの歯車となって雑用をしているだけで、自分がそれを独りよがりで進めようと思えば挫折します。まあ、それでも、一度成功しているのであればいい事だし、協力することで大きな事業を成すことのできるのは社会という機構の優れた特徴です。

そして、まさにその、独りで挑戦して失敗して、苦い思いをしている状態というのは、その挑戦や課題の本質をより深く知ろうとしているということです。社会の不条理を味わっていると言い換えてもいいと思います。不利な条件で始めたり、制限のあるなかで挑戦して、失敗するというのは、競合が恵まれた条件下にあるということでもあります。
「助け」というのは常に平等に所与の恵みではありません。一人で挑戦してみて初めて、それまでの自分がいかに甘やかされていたか気づきます。そして、1人での不条理な挑戦に際してライバルへの不平を言うことはできません。例えば、僕の場合であれば海外留学はそういう体験の一種だと思います。特に国際政治を学ぶ上で、「欧米人のヨーロッパ史の知識・北米や中東へのステレオタイプ・アジア知識のバイアス(オリエンタリズム)・言語的障壁」は少なからず不条理でした。

でも、よく考えてみれば別に、高いパフォーマンスが出ていないことも、負け惜しみや言い訳を色々心の中で考えていることも、学術的な分野の深い理解を妨げるものではない訳です。むしろ、勉強という意味ではこれもいい勉強でしょう。ここでこれを嫌いにならずに、これからも勉強しよう、と前向きな推進力に帰ることが大事なのではないかと思います。

これはもちろん日本で国際関係学を選んでいては見えなかった視点です。まず、国際関係学には、学習者の文化・地理的背景で大きなバイアスがかかる事、そして本当の意味で理論的な建設的な対話はどれだけ博識な学習者やどれだけ優秀な理論家であっても気を抜いてはなし得ない事などが良く分かりました。

こういった視点は、敗者、弱者、凡人、不器用な人の視点と言えます。いずれ、その挑戦において成功するという前提で話を進めると、これらの立場の視点を分かっていないよりかは、経験して身に染みている方が得に決まっています。だから、今の時点で今の僕に大切なのは、今までやって来た事を嫌いにならずに、より好きになるくらいのテンションで向き合い続けていくこと、そのメンタリティだなと思います。

なんだかんだ言ってとても面白かったし、こういう経験ができてラッキーだし。心の中にふてくされていじけている自分が出てきているときは、なるべくこう言い聞かせて次やるべきことを意識していこうと思っている今日この頃です。

やること多いんですけど、頑張りますね。
それでは、また。

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