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負けず嫌いと我儘について

こんにちは。岡崎です。
突然ですが、僕はかなり負けず嫌いな人間だと自負しています。

「負けず嫌い」嫌い

負けず嫌い=諦めの悪さ

負けず嫌いは、目標を諦めない良い性格のように語られがちですがそんなことは無いです。他の人の才能への嫉妬心や古い目標から離れられない執着心など百害あって一利なしな性格だと、自分自身では思っています。

目標や夢というのは、言い換えれば過去の自分が現在、そして未来の自分に対して交わした約束の一種です。他人に対しての約束とは種類が違うため、一般の約束と比べると果たされる可能性が低いですが、人生の目標は自分で設定したゴールであり、自分に約束したことには違いありません。そして、その約束を果たしたいと固執するということ自体は悪い事ではないです。

過去の経験の言語化と未来の目標設定

目標は、達成されることもあれば不達成に終わることもありますが、普通は少しずつ実現に近づいていきます。目標が達成されない場合は、基本的に二つの根本的な条件が見直されるべきでしょう。
その一つ目は、初めに設定されたゴールの妥当性です。「目標を達成できない自分自身」ではなく「目標自体の正当性」を見直すと、より自分の人生が正当なものになっていくと思っています。
二つ目は、他人と自分の関係性です。自分がその目標を追求していることを、どのようにPRしていくかを考えることは重要です。なぜなら、自分の目標達成のためには適切な手段で必要な情報にアクセスする必要があるため、周囲からの理解や正しい評価を受ける必要があるからです。

大抵の人間は、短期、中長期の目標をもって生きています。優秀な人も平凡な人も、意識的にであれ、無意識であれ。目標や人生のゴールは、野望、欲望などとも言いかえられますが、実際に達成された場合には、自身の過去の中で忘れられないマイルストーンになる事でしょう。逆に言えば、自身の過去は、いくつもの一里塚を通り過ぎてきた目標達成の歴史であるはずです。そして人間が他人にその人の人生を説明するときには、どんなタイミングでどんな目標を達成し、失敗してきたかを自分仕立てのストーリーに構成して言語化します。

「負けず嫌い」はストイックさでありながら、裏を返せばいつまでもクヨクヨ、ナヨナヨして切り替えて前を見て次を目指していけない性格なので、僕の性格の中でも一番好きじゃない部分です。しかし、これについて悩んでいるうちに、ある事に考えが至るようになりました。それは、そもそも、人間はそれほど論理的に生きていないのではないかという懸念です。つまり、どれほど自分の失敗と成功を正しく振り返り見積もり、自分の過去と将来を論理的に言語化できるようになったとしても、それほど人間は他者と正しく自分の人生経験を共有できないのではないかという疑問が浮かんできました。

他人の人生は深く理解しなくていい

ここからが本題ですが、自分の人生を内省する姿は、自分の周囲の人間から見るとどのように見えているのでしょうか。

我々は、他人の人生を周囲で観察しながら、本当は人々がどういう人生を送ってきたかを知る由もありません。我々がどこからどこに行って、どういう思いをしてきたか。現在何を考えているか。いかなる思いや目標を持っているか。「思考」は真似できても他の人と一致はしません。いくら僕がだれかに憧れたとしても、全く同じ神経細胞の電気伝達を再現して思考することは残念ながらできないようです。

人間は正しく他人を理解することはできないという前提に立つと、我々が誰かを理解しようと思うとき、相手の人生はどう理解されるのでしょうか。
これを考えるためにまず人間同士が会話していると仮定しましょう。

理解という行為は、主体があってその意識が対象を言語化することで行われます。言葉は万能で、例えば、恋愛感情や死別の悲しみのように、「言葉にできない感情」というような言語化不可能なものですらかみ砕いて言葉にします。本来、人間同士も心の底まで理解しあうことはできません。しかし人間二人集まると、互いが主体として、言葉を使って「他者」の人生を言葉にして理解し(たつもりになり)ます。

自分の人生と他者の人生は別

そして、我々が他人の人生を言葉として我々の脳で処理するとき、言葉を介して、他者が生きてきた時間性と空間性を一挙に吸収しようとします。彼は人生の中で、どこに行き、どんな時間を過ごし、何を感じ、それをどう言葉にしているのか。そして、その前提になるのは、自分自身の人生経験です。「彼」の過去と「私」の過去は別物ですが、「私」がそれを理解するときは「彼」の過去と「私」の過去の経験を比較して言葉として理解します。

しかし、そういうプロセスは常にギャップと矛盾と誤解を孕むものです。その差が大きくなると、人同士は全く理解できないと感じ、社会の整合性も下がっていきます。僕が生きてきた時間、感じてきた世界の空間の広がりは僕にしか感じられません。

でも、そういう限界を意識しつつも、心の底では理解しあえていなくても、他の時空を生きてきた他の人々と一緒になって共に一つの社会で生きているというのは、なんだか奇跡的なことだと感じました。

わがままに生きたい

で、初めの考察は何でしたでしょうか。こだわり、もしくは負けず嫌いについてでした。他人と自分はあまり理解しあえないので、自分の経験は自分の中に閉じ込めておくしかないという結論に達した上で考え直すと、完璧に自分を理解してもらえるなどと期待してはいけない、という前提の上で、できるだけ我儘に生きることが目標達成への一番の近道なのかもしれません。

この場合のわがままというのは、我が強いということだけを指すわけでは無く、自分の意思をきちんと毎回示し、自分の希望に結果的に忠実に生活を送っていくということが結局は自分のためになるということだと感じました。

なんだかんだいっても、僕自身も、ここまで周りの人に支えてもらって、我儘に生きてきました。その結果の一つがイギリス留学だと思っています。人生を送るうえで、あまり噛みあいが上手くいかず風向きが悪いと感じることもありますが、自分がラッキーだと信じ込み我儘に暮らすことが一番成功に近づける手段かなと今のところは感じています。あと、失敗を失敗と認めて次に移ることも大切ですね、やはり。負けず嫌いもほどほどにしなければいけません。

それでは、また。

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