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ちょっと、プラネタリウム行ってみない?


平日の昼間、わたしはサラリーマンに紛れて牛かつを食べている。



それが今日のはじまりだったらよかった。




新宿三丁目駅から徒歩1分の牛かつ屋は、まだお昼前なのに長蛇の列ができていた。
今日はこのお腹で来てしまったなあ、と思いつつ、それを見越して朝食を少なめにしたことを少し後悔した。

これは並ばないと食べられないものだったのだと悟り、今にもメーターが空腹に振り切ってしまいそうな身体を引きずりながら、わたしはその店を後にした。



有給を1日使って3連休で行くつもりだった友人との旅行は、諸事情でやむなく中止になった。
有給を取り消すこともできたが、「やっぱり働きます!」と言えるほどのやる気はなかった。自由に好きなことをして一日を終えられるなら、そっちの方がいいに決まっている。

だって明日のことなんかわからない。明日で人生が終了するなら、休みを無かったことにした選択をきっと後悔する。



この牛かつ屋に立ち寄ってみたかったのには理由があった。
Googleマップを見ていて、見覚えのある名前だと気付くのにさほど時間はかからなかった。



東京に出てきて間もない頃、同郷の男の子と渋谷のハチ公前で待ち合わせをしたことがある。恥ずかしげもなく鼻水を垂らしていた頃からの仲である彼が、長期休みを使ってしばらく東京に滞在するという。その頃はまだお互い学生だった。

東京に住んだことのないはずの彼が、誰に教えてもらったのか「ここは間違いないんだな」といってわたしを連れて来たのが、その牛かつ屋だった。

わたしは今でも渋谷という街に疎い。だから、彼と来たその店がハチ公前からどっちの方面にあったのか思い出せない。渋谷に複数構えるそのお店は、マップで確かめても、どれもここなようでここではない気がした。

記憶を辿ってもどの駅とも結びつかない、不思議と迷い込んでしまったような場所を思い出すことがある。



ふたりで牛かつを食べている時に、彼は「ちょっと、プラネタリウム行ってみない?」とわたしを誘った。
チケットをもらったから。確かそんな理由だった。

その場所も渋谷にあって、渋谷なのかと思うほど人通りの少ないエリアだった。
けれど、どんな道を辿って行ったのかは、牛かつ屋同様覚えていない。

プラネタリウムは小学校の遠足で行った以来だった。真昼間の渋谷で、リクライニングチェアのようなものに座って人工的な星空を眺めている。今思えば、あれは地元の男友達とふたりで行くような場所ではなかった。


俺もそのうち東京で働くから。
そう言っていた彼と、社会人になってから東京で会うことは一度もなかった。
わたしは彼がどこにいるかも知らなかったけれど、女友だちから近々地元で同棲を始めることを聞いた。


牛かつを諦めてたどり着いたのは、一般的なサンドイッチが出てくる喫茶店だった。
やっぱりさっきのお店に並ぶべきだった。

有給を取り消さずに生きたこの一日は、一ヶ月後には無かったことになってしまうような一日に思えてならなかった。

いや、きっとそのどれもが無かったことになってしまう。
渋谷で食べた牛かつも、プラネタリウムも。


あれは存在していたのか確かめようのない記憶が、今日もまた東京の街に沈んでいった。

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