見出し画像

チョコスコーンの彼女の時代に




今日は雨予報ではなかったのに、カフェの3階から見た外の世界は、いつ間にか本格的に雨が降っていた。

昨日n回目のビニール傘盗難の目に遭い、これからは如何なる雨の時も、いや、如何なる天気であっても折りたたみ傘を忍ばせておこうと決めた矢先に、油断した。

次の予定まで1時間ほど。どうかそれまでに止んではくれないだろうか。



カフェはソロ活の民で溢れていた。パソコンやノートに向かいながら自分の作業に集中している。

一方でわたしは、こういう状況で周りが気になってしまうタイプだ。100%自分の世界に入り込めないというか、入り込むまでに時間がかかって結果入れずに終わるというか。

本を読むにしても、幾らかは頭に入る前に溢れてしまうから、ここで読み進めるのはもったいなかった。


ぼーっとしながら、唐突に降りて来た言葉をメモに書いて、手元のサンドイッチにかじりつく。向かいのビルに取り付けられた飲食店の看板は、3階からの目線で見ると案外大きかった。

イヤホンからのBGMは要らなかった。誰かが本をめくる音、氷がグラスにぶつかる音、ひそひそと話す声。それらがあれば。

見るもの、聞こえるもの、触れるものの全てが、わたしの毎日に無いものだ。この雑多な空間は、何かに集中して作業ができなくても、決して退屈ではなかった。


窓側の一人掛けソファー席のひとつに、4、5歳くらいの女の子が座っているのが見えた。左手にチョコスコーン、右手でスマホを持ちながらショート動画をスクロールしていた。大人と同じように、何とも器用に。

女の子の隣には20代後半くらいの女性が座っていた。てっきり母親なのかと思って見ていたけれど、どうやら違ったようで、女の子はひとりでここへ来て飲み物とスコーンを注文したようだった。


そうだった。ここ都会なんやった。
未だに彼女のような子どもを見て、そう思うことがある。

この街では、大人のように、今で言うなら人生2周目であるかのように暮らしている子どもを見かける。そこにいる大人は彼らを特別なものとして見ていない。一つのよくある日常として、子どもとしてではなく一人の人間として受け入れている。チョコスコーンの彼女も、他の大人と同じようにその空間に溶け込んでいた。
地元では見たことのないそういった光景が、最初は不思議で仕方なかった。


わたしは、どんな子どもとして大人の目に映っていただろうか。

就職活動でせっせと自己分析ノートを作っていた時、母に聞いたことがある。

当時、保育園に通っていたわたしを母が迎えに来た時のこと。所属していたクラスは、通常のクラスルームが足りない影響で、発表会の舞台がある体育館のような広い部屋だった。

母が見たのは、その部屋でたった一人で絵を描いているわたしだった。母が近づいても、こちらをチラッと見るだけで、絵を描き続けていたのだという。


「みんなは?どこ行ったん?」


母に言われて、この部屋には自分以外誰もいなかったことに気がついた。
友だちと喧嘩をしたわけでも、意地悪をしたりされたりでもなかった。周りの子は外で遊びたいけれど、わたしは絵を描きたい。そういう単純な考えからそうなっただけだ。


「何かに夢中になったら、だりちゃんの集中力はすごかった。どこかの世界に行ってしまうのよ」


確かに昔はそんな節があった。
祖母に教わった編み物や手芸にハマっていた頃は、それを朝から晩までやるような子どもだった。毎回全神経を注ぐあまり、偏頭痛の常連でもあった。

偏頭痛の頻度が収まってきた頃には、何かに没頭する時間も薄まっていた。
今ここでのわたしは、集中や没頭とは離れた場所にいる。どうやら、そのまま大人にはなれなかったみたい。


チョコスコーンの女の子は、いつの間にかいなくなっていた。彼女はどんな大人になるのだろう。そう思いながら、残りのサンドイッチを口の中に詰め込んだ。

この記事が参加している募集

#今こんな気分

76,520件

#この経験に学べ

55,345件

#この街がすき

43,995件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?