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優しさは強さからできている

とあるYouTuberを見つけた。

その人は双極性障害、ADHDを持っている人で投稿される動画もそういったたぐいのものだった。統合失調症持ちの僕にとってはすごく救われる言葉もあれば、その生きている、という姿に励まされもした。

ところが先日、最近の動画が非公開になってしまっていた。もしかして……と最悪の事態も考えたりもしたが、数日後動画が出た。「もう疲れた」と。

動画を投稿するのにコンサータという薬を多めに飲んだり、原稿を書いて推敲してで50時間くらいかかったりと、かなり無理をしていたようだった。

文字通り命を削って動画を出していた。

なんのために?自己承認欲求を満たすため?視聴者を救うため?わからない。でも、ただひとつ言えることは、僕も彼の動画に救われた人のひとりだということ。

でもまさかそこまで命をBETしているとは……。躁のときに溜め取りしているのかと思ってた自分が情けない。

誰かを救いたいなら、まずは自分が救われなければならない。自分の命を削ってまですることではない。

人助けなんて、金持ちが募金箱に1,000円札を突っ込むような、そんなくらいでないと成り立たない。

本当に救わなければならない人は、「ありがとう」という言葉を知らない人だったりする。それでもあなたは、君は、お前は、その人を救おうと思うか?

優しくなりたければまず強くならなければならない。

そうでないとSOSの濁流に呑み込まれてしまう。

みんな聞いてほしいのだから。自分の悲劇を。悲しみを。痛みを。

それはみんなそれぞれが主人公だから、判を押したような言葉では通用しない。

「聴く」というのはものすごくエネルギーを使う。場合によっては話し手に精神力を吸い取られるような感覚さえすることがある。

それをカウンセラーの世界では「持っていかれる」と言うそうだ。

聴き手が持っていかれては話にならない。中途半端な優しさで話を聞いてあげようなんて、共倒れるだけだ。誰も救われない。


僕の夢は作家になることとカウンセラーになることだった。

自分が病気になって、障害者手帳ももらってで、カウンセラーは諦めた。作家になるのも諦めたわけではないけどいままでとはアプローチを変えてチャレンジしているところ。

僕には悩める人の話を聴く強さはない。だからこうして一方的に書きなぐるだけ。

僕の記事を読んだすべての人に無条件の愛が注がれますように、と願いながら。

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