ばたつき本
本が飛んでいる。滑空している。バッタの群れのように。時々蚊柱のように。
世界中の本が空を飛ぶようになってから三日が経った。SNSでは企業アカウントが商魂たくましく鍵付きの本棚やベルトの付いたブックカバーの宣伝をしている。本は信号機よりもやや高い所を飛んでいるため、今のところ飛び交う本による怪我人や、事故は発生していないようだ。最初こそ運休となったが、鉄道や航空にも影響はほとんどないらしい。ただし書店や古本屋に陳列されている本も例外なく空を飛んでいったため、本に関係する業界は悲鳴を上げているだろう。電子書籍に完全移行する本も今後は増えるかもしれない。一般人にとっては、飛び交う本の群れによって日光が遮られるのが一番の問題だろうか。社内のマニュアルまでもが飛び交っていたのは多少驚いたが、ホチキス留めを外せば独立した紙になるためか、大人しく棚に収まってくれた。意識高い自己啓発本を机にこれみよがしに並べていた上司が、ここぞとばかりにタイトルを呼んで探していた。
行き過ぎた断捨離により全ての本を売り払った直後の私の部屋には本が一冊もなかった。なので、あまり関係のない話だと思っていた。仕事を終え、ガサガサとページをはためかせる本を見上げながら帰ると、閉め忘れた部屋の窓から飛び込んだらしい本が一冊、床に落ちていた。どうやら飛び込んだ勢いで、傷んだ表紙が千切れて、死んだようだった。劣化した糊の跡からは糸が何本かほつれて伸びている。欠けた赤色の背表紙には箔押しで『自由』と書かれていた。皮肉なものだ。自由の代償として、こんな何もない部屋に落ちている。本の直し方を少し調べたが、その道の専門家がいるほど技術を要するものらしい、というのを流し見てそっと画面を閉じた。廃品として捨てるか、しまっておくか。持っていても読むことはないだろうけれど、断捨離直後にこの本だけを廃品に出すのも億劫だ。私は剥がれたハードカバーにページ束を挟み、机の上に置いた。
本が空を飛び始めて一年ほど過ぎた。ある日突然、空を飛んでいた本は全て地面に落ちた。今度は相当な災害になった。病院がパンクし、テレビには野戦病院のような映像が流れている。地方に住む友人や家族は怪我こそしなかったものの、落ちた本で道路が塞がれたらしく、雪かきならぬ本かきをしたと言っていた。たまたま休みだった私は、あれからずっと机の上に置かれ、時々カップ麺に乗せたり、鍋敷にされていた本を開いた。ぱりぱりと糊が剥がれる音とともに、劣化したカスがはらはらと膝の上に落ちる。なんてことはない。やや偉そうな口調で語られている、自由の素晴らしさと責任を説いた本であった。
──自由とは、与える事のない神である。
中身のあるようなないような、格言めいた言葉が目に入った。わかったふりをしながら本を閉じ、机の上に置く。断捨離以降に物を買い足さなくなった私の部屋には、相変わらず他に本はない。
しばらくは会社も休みだろう。うんと伸びをして立ち上がると、触れていないはずの本がとさり、と机から落ちた。どうやらこの本は、まだ自由を求めていたらしい。
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