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水溜まり

 り、り、りと鐘つき虫の規則正しい音が好き勝手に騒ぐ朝。気が付くと僕は、水たまりの中にいた。三日ほど続く大雨でずいぶん深く、広い水たまりだったのは確かだが、精神年齢はともかく身体的には大人になった僕が潜れるほどの深さは、当然ながらありえない。世界は逆さまになって、先ほどまで歩いていた道路は水たまり越しに足の裏にある、と思われる。周りは明るい。恐らくは向こう側にある世界の、差し込む朝日がこちら側を照らしているのだろう。

 夜になったり、その前に水たまりが乾いたら、この世界は暗闇なのだろうか。そう思いながら歩いていると、ある水たまりの向こう側から声が聞こえた。おーい、おーい、と誰かに向かって呼びかけているようだ。僕は声の聞こえる水たまりを見下ろすと、向こう側から学生服の男の子がこちらを見ているようだった。つぷ、と男の子が水たまりに指を入れた。しゃがんで、その指をつまむと、男の子はびく、と身体を少し揺らした後、今度は思い切って手を入れてきた。ばしゃ。水たまりに映る男の子は歪む。そっち行きたい、と声が聞こえた。僕は手を掴み、こちらの世界へ男の子を引きずり出した。

 男の子も僕も、互いに名乗ることはなかったように思う。向こうの日差しはずいぶんと暖かいようだ。段々と光が消えて、辺りはすぐに暗闇となった。残るは恐らく、拳も入らないような小さな穴ぼこや、噴水の近くだと思われるドーナツ型のか細い光ばかりだ。どうでもいい話をしながら僕らはどこかへ歩き続けた。暗闇の中に気付く人は他にいなかった。少なくとも徒歩圏内には、いないようだ。

 時々ごろ寝をして、眠って、起きても暗闇、という日々が数日続いた後、いつものように二人で眠りに就き目が覚めると、遠くの方にだだっ広い水たまりを見つけた。どこまでも続いてるような光は朝焼け色からカンカン照りの色になり、とうとう夕焼け色になった。一日中、二人でその色を眺めていた。どちらからともなく、行こうか、と声を出した。うん、と返事をする。わざと水しぶきをあげるつもりで、手を繋いで飛び込んだ。

 ぱ、と飛び出した先は、家の近所の海だった。それほど遠くもない距離を思い返して二人で笑った。

「ここまで来るのにどれだけゆっくり歩いたんだろーね」

それだけ言って、男の子は海に沈んだ。裏側に出たのかと思ったが、時折顔を出しては、あぷ、あぷ、と向こうに流れていこうとしている。そうこうしているうちにざば、と波が二人を飲み込んだ。手を離さずにいられたのは僥倖であろうか。

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