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  • 百景マガジン

    • 7本

    京都にある喫茶店「喫茶百景」に関わる人たちが隔週ぐらいで投稿するマガジンです。https://www.instagram.com/hyakkei_coffee/

  • 同情の彼方へ

最近の記事

美術館、あるいはミクロ政治

僕は京都にいる。 本来であれば、ベトナムに行く予定だった。 先日、一睡もせずに空港へ行き、飛行機のチェックイン・カウンターに並んだ。 僕の番が来て、リュックを重量計に乗せる。 2キロのオーバーである。機内持ち込みは7キロという制限がある。頭を掻きながら、いそいそとお手洗いへ向かい、本を隠した。 再度カウンターに並び、荷物を置く。6.7キロ。 思ったより本を持ってきてしまったなと思いながらパスポートを渡す。 「おかえりはいつですか。」 「10月4日の予定です。まだ飛行

    • 同情の彼方へ

      そうさ、猫の手を潰す必要なんで何処にもない。とてもおとなしい猫だし、悪いことなんて何もしやしないんだ。それに猫の手を潰したからって誰が得するわけでもない。無意味だし、ひどすぎる。でもね、世の中にはそんな風な理由もない悪意が山とあるんだよ。あたしにも理解できない、あんたにも理解できない。でもそれは確かに存在しているんだ。取り囲まれてるって言ったっていいかもしれないね*1。 猫の手を潰す。元首相を銃殺。民族浄化。 彼らは狂っているのか。 「人間は全て倒錯している。」 そうだ、ぼ

      • ニーチェは強者のためだけのものか

         『ツァラトゥストラはこう言った』を読んだ。『道徳の系譜』に続く2冊目。当時の価値基盤となっているキリスト教を退け、ルサンチマンを砕こうとする彼の思想は、しばしば強者の思想であると言われがちだ。しかし、ニーチェは果たして強者の思想を唱えただけなのだろうか。ただのアンモラリストで倫理のへったくれもない人物なのだろうか。これについて少し考えてみたい。 1.強者としてのニーチェ  ニーチェの思想の「強さ」は至るところに散見される。事実、ツァラトゥストラにおいても、そういった部分

        • バスや電車の運転手のアナウンスが多様なことについて

           僕はいま、京都府の市営バスに揺られている。  四条河原町から銀閣寺方面へ向かうバスだ。乗客はみな熱心にスマホをいじっている。各停留所で、人が乗っては降りを繰り返し、流れて行く。停留所の前後で機械的なアナウンスが流れる。と同時に、なにか聞きなれないトーンの声が耳に入る。 「バスが動きます。ご注意くだっさーい⤴︎⤴︎」  僕は言い知れない違和感に襲われる。果たして、日常でこんなトーンで会話をすることがあるだろうか。自分の会話の基準を覆されたような、そんな不安感にも駆られる。

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          ラッコが手を繋いで寝ることについて

          ラッコは手を繋いで寝る。生物学的には、仲間とはぐれないためだ。 僕たちはいささか、因果関係を求めすぎているように思う。りんごが木から落ちるのは重力のためだし、猿が木から落ちるのは、技量的な失敗と重力のためだし、ぼくが木から落ちるのは木登りが苦手だからだ(特に苦手でも得意でもないが)。 だが本当にそうだろうか。もしかすると、りんごが木から落ちるのはぶらさがっているのに疲れたからかもしれない。猿が木から落ちるのは落ちてみたかったからかもしれない。つまり、ぼくが言いたいのは、は

          ラッコが手を繋いで寝ることについて