ニーチェは強者のためだけのものか

 『ツァラトゥストラはこう言った』を読んだ。『道徳の系譜』に続く2冊目。当時の価値基盤となっているキリスト教を退け、ルサンチマンを砕こうとする彼の思想は、しばしば強者の思想であると言われがちだ。しかし、ニーチェは果たして強者の思想を唱えただけなのだろうか。ただのアンモラリストで倫理のへったくれもない人物なのだろうか。これについて少し考えてみたい。

目次
1.強者としてのニーチェ
2.ニーチェから倫理を問う
3.ニーチェは強者のためだけのものか

1.強者としてのニーチェ

 ニーチェの思想の「強さ」は至るところに散見される。事実、ツァラトゥストラにおいても、そういった部分は多くみられる。同情を退けるといった訳語に、感受性の乏しさを感じる人も多いのではないだろうか。現実に落とし込んだときにー例えば、ウクライナでの戦争ー同情を退け、それを笑うという行為に、圧倒的な背徳感と罪悪感を感じるのは道理であろう。
 しかし、この文言は字義道理のものなのだろうか。僕は違うと思う。その根拠は「悲劇」の解釈にあると僕は考える。
 私たちのイメージとニーチェが言う「悲劇」は異なる。私たちは日常的に、悲惨な出来事を「悲劇」と言う。しかし少し立ち止まって見てほしい。凄惨な出来事に対して「悲劇」という言葉をあてるのは、果たして正当なことであろうか。悲劇とは所詮は劇でしかない。ニーチェ的に言うとドラマである。ニーチェによると、悲劇には二つある。自身で生きる悲劇と生かされる悲劇だ。僕たちの想う悲劇は後者にあたる。
 ニーチェは後者の悲劇を攻撃する。その悲劇/人生は受動的なものでしかなく、自身の情動を抑圧したうえでなりたっているものだ。この人生では、ルサンチマンと疚しい良心しか生まれてこない。つまり、妬みと現実の甘受である。これを各人の無意識に植え付けたのがキリスト教や道徳であり、だからこそニーチェはこれらを糾弾する。
 こうした悲劇に生かされるのではなく、悲劇を「生きる」こと。悲劇に「否(Nein)」を突きつけるのではなく、勇敢なる「然り(Ja)」を言うこと。これこそが、超人への能動的生成であり、自らの実存を生きるということである。つまり、権力への意志に従うことである。これを考えると、ニーチェは強者のためだけの思想ではないことがわかるだろう。


2.ニーチェから倫理を問う

 では、権力への意志を唱えたニーチェにとって、倫理とはどう映るのだろうか。
 先の権力への意志を絶対視すると何が起こるか。それは、弱肉強食を肯定する自然主義的世界の発生であり、ホッブズのような「万人の万人に対する闘争」といった、真性のアナーキーが発生するだろう。これを回避するためにニーチェはどうするのか。
 ここでおもしろいのは、超人はおそらく一者ではないということであり、絶対主義の代わりに多元主義をニーチェが提唱していると考えられる点である。
 たしかに、ツァラトゥストラは来るべき超人を待ち侘びたし、それが多数であるという記述はない。しかし、同様に「最後の人(Letzte Mensch)」も多数という記述はないが、一般的な世間というふうに考えられている。ここでハイデガー的な現存在との共通点が見出せる(ドゥルーズがこの根拠を述べているが、まだ読めておらず、説得力と明晰さを欠くかもしれないが悪しからず)。
 ハイデガーは現存在という存在者を他の存在者に対して優位に置いた。存在者とは世間(Das Man)であり、多数の他者の中に埋もれて自身の実存を忘れ去った存在者である。それに対して現存在は、本来的に生きることにより、自身の実存を意識している存在者である。それでは、この現存在は選ばれ者ものなのかというとそうではない。ハイデガーによると、現存在は当初、万人が保持しているものであり、万人に対して開かれているものである。しかし、本性として共存在(Mitsein)である私たちは、他者との生活を避けることはできず、大衆のなかに埋もれていってしまう。しかし、ここからでも私たちは現存在へと生成することができる。それは死を意識して生きること=本来的に生きることによってである。なぜなら、私たち自身の死は、私たちによってしか経験されないからである。
 このハイデガーのメソドロジーに基づくと、ニーチェにも同様の解釈が可能ではないのだろうか。「最後の人」は「最後」ではなく、のちに「回帰」してくる超人であり、ディオニソス的真夜中から大いなる正午への反復と考えることができるのではないだろうか。
 となると、超人を絶対的な一者と考えることは不可能になる。超人から最後の人へ再度生成したとしても、また永劫回帰によって超人へと生成することができる。自身の実存を生きること、しかしそこに弱者を置かないこと。これがニーチェの倫理なのではないだろうか。ほら、同情とはそもそも、強者が他者に対して抱くものではないか!それを笑い飛ばすもの、悲劇を喜劇に変えることができるものが強いのだ。


3.ニーチェは強者のためだけのものか

 ここまで、ニーチェの悲劇についての解釈とニーチェにとっての倫理を追ってきた。ここで簡潔に結論をだすと、ニーチェは強者のためだけのものではない。そうではなく、ニーチェは弱者が強者に生成することを唱えたのである。弱いからと現世を否定するのではなく、その現世さえ肯定すること。こうした肯定の思想がニーチェにはあるのではないだろうか。


論として至らない箇所、引用もなく書いたこと、足りないことは多いが、ここで本論を閉じることとする。

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