バスや電車の運転手のアナウンスが多様なことについて

 僕はいま、京都府の市営バスに揺られている。
 四条河原町から銀閣寺方面へ向かうバスだ。乗客はみな熱心にスマホをいじっている。各停留所で、人が乗っては降りを繰り返し、流れて行く。停留所の前後で機械的なアナウンスが流れる。と同時に、なにか聞きなれないトーンの声が耳に入る。

「バスが動きます。ご注意くだっさーい⤴︎⤴︎」

 僕は言い知れない違和感に襲われる。果たして、日常でこんなトーンで会話をすることがあるだろうか。自分の会話の基準を覆されたような、そんな不安感にも駆られる。僕の日本語は日本語の一部としての日本語でしかないのではないかなどとも思う(そしておそらくそうだ)。
 バスや電車のアナウンスには、各運転手の特徴がはっきりと現れてくるように思う。無数にあるバスや電車で一つとして同じトーンなものはない。いや、それは言い過ぎで、比較的年齢層が低い人たちは、日常的な会話の口調でアナウンスをすることが多い(と僕は思う)。
 では、この口調のクセは年齢や経験によるものなのだろうか。
 もしかしたら、バスや電車の運転手は、入社後にアナウンスの専門学校へ10年ほど通い、個人のオリジナリティを手に入れるのかもしれない。
 そこにはアナウンスの講師がいて、まず基礎的な日常の口調をまず3年ほど教える。その後に先輩方のアナウンス集を基に、生徒たちのキャラクターなどを計算に入れた発声やトーンを発掘する。最後に、各自が見つけ出したトーンや口調を洗練させるといった行程がある。
 「基礎がないものに応用はない」とはよくいったもので、車内アナウンスに関してもそうなのかもしれない。とにかく、運転手を目指す人々はそこで修練を積む。もちろん、ユニークネスを自覚している生徒たちもいるだろうから、彼らは「優等生」としてすぐに現場で修練を積むだろう。
 彼らは、自分のやり方ができるかどうか不安になることがあるのかな、とも疑問に思ったりもする。そんなことはないのだろうか。常に安定したパフォーマンスを出さなければ、他の運転手に埋もれてしまうといったような心配があるのだろうか。
 なによりも他の乗客はこのことについて何も思わないのだろうか。音楽やスマホに注意を奪われているからだろうか。こうやってスマホで文字を打ちながらもスマホを嫌いになってしまう次第である。

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