美術館、あるいはミクロ政治

僕は京都にいる。

本来であれば、ベトナムに行く予定だった。

先日、一睡もせずに空港へ行き、飛行機のチェックイン・カウンターに並んだ。
僕の番が来て、リュックを重量計に乗せる。
2キロのオーバーである。機内持ち込みは7キロという制限がある。頭を掻きながら、いそいそとお手洗いへ向かい、本を隠した。

再度カウンターに並び、荷物を置く。6.7キロ。
思ったより本を持ってきてしまったなと思いながらパスポートを渡す。

「おかえりはいつですか。」

「10月4日の予定です。まだ飛行機は予約していませんが。」

「わかりました。」

チケットが発行されるのを確認し、一息ついていると、受付の女性がバツの悪そうな顔をしている。
何か嫌なことが起きるな、と僕は思った。
思えば朝から、早朝のバスに遅れないために起きていたにもかかわらず、乗り遅れそうになった。
長い信号に引っかかり、傘立てを倒し、コンビニでは前の人がなにやら手間取っており、なかなかに待たされた。あまりいい日ではないのかなと思っていた。

「パスポートの期限が半年を切っています。そのため、ベトナムへ行ってもビザがなければ入国できません。」

「アライバルビザはないんですか。」

「ないんです。残念ながら。」

「そうですか。」

こうして僕のベトナム旅行は中止となった。
トイレへ戻り、本を詰め直し、9キロのバックパックを背負って喫煙所を探し求める。
空港でバックパックを背負った人間が、まさか期限不足のパスポートを持っているなどだれも予想しないだろう。しかし、僕は現にそうした人間だった。非在である。

タバコを吸い、自宅の最寄り駅までのバスに乗る。
バスの運転手は、行きと同じ男性だ。
こういう時は、空港はいいものだ。突然フライトがなくなるということがありえるから、あまり不思議がられない。

Uターンで帰ってきた僕はすぐにベッドに潜り込み、深い眠りについた。

目が覚めると、もう夕方である。

僕は自分のミスで何か悪いことが起きたところで、特に動揺はしない。素直に受け入れる。
しかし、人と会う予定がなくなるのはさびしいものだ。常に一人でいるからというのもあるが、僕は人間に飢えていた。一人で近くの繁華街へ行き、居酒屋でビールを飲み、餃子を食べ、行きつけのバーへいき、旬の梨を使ったカクテルを飲んだ。

僕は大阪に近い兵庫に住んでいる。大学が京都だったため、付き合いのある友人は京都にいる。その友人の一人から、美術館へ行こうという誘いを受けた。アンディ・ウォーホルの美術展だ。
僕はぽっかりと空いてしまった予定を埋めるために、快く承諾した。

そうして僕は美術館にいる。

この美術館は大きな公園と神社の敷地内にある。三連休最終日で観光スポットと並んでいるとなると、かなりの人混みだ。さらに悪いことに、餃子フェスティバルなるものが開催されていた。今年は餃子が流行っているのだ。いまさら餃子のおいしさに気づいたのだろうか。餃子はいつ食べても美味い。人混みに飲まれながらも、美術館に入った。

まず目に入ったのは金箔を使った絵画群だった。どうやらウォーホルはアジアを訪れた際に、金箔を使った装飾に感銘を受けたらしい。西洋の人々は金箔に弱いようだ。僕も、イタリア人のCAを二人金閣寺へ案内したときに、あの金箔は盗まれないのかと聞かれたことがある。

次にあったのは、ウォーホルが日本ー特に東京と京都ーから受けた影響をもとにして描いた絵画たちだった。
僕はここで足を止めた。

「ミクロ政治だ。」

とりわけ大きな印象を受けたのは、葛飾北斎の絵にインスピレーションを受け、ウォーホルが描いた波だった。葛飾北斎の沖浪裏は、しっかりとした空間の使い方がベースにあり、そこに波の荒々しさを描いている。しかし、ウォーホルのそれは全く違った。まず、輪郭が丸いのである。
波という自然を描くのに丸い輪郭を使うのは、かなりの違和感がある。そして輪郭内の両側に波が描かれているのだが、ぐるっと一周したようなかっこうだった。僕はそこに何かスキゾ的なものを感じずにはいられなかった。

空間の配置のずれと二重化された輪郭、濃淡を出す線も、最も太い部分は二重化されていて、目の細かいストライプ柄を見ているようだ。なるほど、これはドゥルーズ=ガタリのいう抽象線であり、創造的な線なのかもしれないとぼんやり考えていた。

しかし、僕が嫌に思ったのは、そのゾーンの入り口に書かれているキャプションだった。

要約すると、ウォーホルは日本からも大きな影響を受け、その絵画を日本の伝統的な都市である京都で開催できることに云々、そしてウォーホルは日本の都市が好きで云々。

主催者は芸術を、葛飾北斎の絵から逃走線を引っ張り出した絵を、京都ー日本の上で再領土化しようとしているのではないか。芸術を日本という国家に引き寄せ、超コード化し、日本という国がこれほどの芸術家に与えた影響を持ち上げ、想像的な共同体意識を植え付けようとしているのではないか。

芸術とはそれ自体で政治的なものである。

『哲学とは何か』でドゥルーズとガタリが語ったことを想起した1日であった。

ガタリがこの展示会を見たら何を思っていたのだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?