「服を捨てる」、必要なのは勇気じゃなくて愛
先日も、断捨離を決行した。洋服をゴミ袋に詰めまくって捨てた。しかし気付いたのは、わたしのワードローブに「好き」は詰まっていない。どっちかって言えば好きじゃないものばかり。なんでこんなことになってしまったのだろうか?
わたしは、昔から「服が好き」だった。純粋に、洋服が好きだったはずだ、ファッションが好きだったはずだ、でもいつの間にかそうではなくなっていた自分に気付く。服が好きなんではなく、「買う」のが好きになってしまっていたんだ。
好きなものは全部捨てた。
好きな服は、とことん着古し、ボロボロになっても着たかったし、捨てたくなかったものだ。今よりもお金がなかった頃に、予算オーバーの洋服がどうしても欲しくて、思い切って手に入れて、そしてヘビロテして。
例えば、別珍の黒ジャケットが欲しいなぁと思っていた若い頃、よく行っていたショップで話したら「今度入荷するよ」って。お値段はやっぱり予算外。「1点しか入荷しないけど、取り置きしとこうか?」と馴染みの店員さん。
欲しくてほしくて、取り置きをお願いし、入荷を楽しみに待ち、実際に袖を通してみたら自分の身体にぴったり吸い付くようで、わたしはとても大切にした。真冬でもそれを着て、わたしは恋人のようにいつもソレを傍に置いた。
数年は着たと思う。裏地には穴が開いた。それでも着続け、ポケットにも穴が開いて用をなさなくなり、泣く泣く捨てた。
こんなふうに、好きなものをいつまでもいつまでも着るほど、わたしはきちんと洋服を愛していたと思う。
断捨離で、物への執着はやめようと思った時から、「着ないもの、着れないものは捨てよう」と、大好きなものを手放し続けた。
わたしがワードローブに残したのは、「大切なもの」じゃない。「利便性が高い」ものだった。可もなく不可もなく。オフィスカジュアルに使えるもの。ユニクロが多いし。
好きな洋服は、全部捨てた。愛したものは、手放した。そうしたら、ずっと寂しくなった。大切にしたいものは、世界から消えたのだ。
断捨離は本来、物への執着を捨てることであるはずなのに、わたしは選択を間違っていたんだと思う。
大切なものを捨て、不要なものを残してしまった。生活に必要なものを残して、わたしの心を満たすものを捨ててしまったのだ。生活に必要なものは、わたしにとって大切なものでもなんでもないのに、これがイコールで結ばれてくれたらどんなにか生きやすいか。
捨てることに囚われすぎると、大切なものまで捨てかねない。
というか、捨てた。間違って携帯電話まで捨ててしまったことさえある。墓場まで持っていこうと決めた1品だったのに、である。この絶望感と言ったら半端なかったよ。パネェってなった。
生活には必要ない。でも、自分という人間を形作ってきたもの、これからも足場となるもの、そういうものって捨てられる?
過去を容赦なく捨てることって、本当にメリットあんの?
新鮮な空気が入り込まなくたっていいじゃない。隙間風にさらされながら淀んでたっていいじゃない。
そして、捨てた末に無駄な買い物をする。
結局はこうなんだよ。洋服捨てた→寂しい→いらない服買う。こういうサイクルなんだよわたしという人間は。断捨離なんてあったもんじゃない。
もちろん、捨てなくたって買う。買ってしまう。もう病気といってもいい。
ユニクロ製品とか、もう全然大切じゃないから、捨てるしまた買うしそして捨てるし。っていうほど捨てないし。気に入らないけど使い勝手いいから残ってるし。使い勝手よくても心は満たさないから数で埋めるだけだし。
わたしは、ある時急に物を捨てたくなる。だから先日、思い立ってアイロン台を真夜中に分解して捨てた(この記事:謎の部品に、未来を見た)。
そんで、アイロン台替わりに、くるくる丸めて収納できるアイロンシートみたいなもんを買う予定だ。でもよく考えたらいらない。だって、ティファールのハンディアイロンがあるし。
でもきっと、買うんだろう。買うのが趣味だから。
どんどん買うから、物に愛着がなくなってる。自分が何を持っているかわからなくなる。わからなくなるから、急に物を捨てたくなって、持ち物を把握できるようにしたくなる。情報を極端に減らしたくなる。
すっきりして、また詰め込むんだ。この低容量の脳みそに。
しかし、埋めたからと言って満たされない。
テラバイトとかそんなものが比にならないほど心の容量がでかすぎるって話ではない。むしろ小さい、キロバイトとかの単位で済むんじゃないか。
きっと、幾千もの針孔が空いてんだ。小さいからたまに奇跡的に穴詰まるし。
ただそうじゃなくて、何か1個でも、めちゃくちゃに愛して人生を賭して大切にできるものを、わたしはそばに置いておきたいだけなんだ。圧倒的に埋めたい。
叶わないから、服を買う。物を買う。アイボが欲しい。ペッパーくんも欲しい。早急にダイソンの掃除機が欲しい。
※本記事は、2018年7月22日に自サイトにて投稿した文章を加筆修正したものです。
※※追記 この記事執筆から5年経過した今、やはり服は好きで服への欲求が溢れそうになるが、わたしはそれを押しとどめることに成功している。理由は、わたしの心というか時間というか自由というかそれらを埋めるというか奪うというか、何にしろ空虚さを抱えずに済む夫という存在が常に隣にいるからである。それと同時に、現在、夫婦ともに無職だからである。文字通り、いつも隣にいる。
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