謎の部品に、未来を見た
某国家試験まであと2か月を切った。何もしてない。してなさすぎて、割と泣きそうになっている。よく「勉強してない~やばい~」と、してるくせにウソをつく輩と違って、ガチで何もしていないと本当に何もしていないと言うしかなく、「本当は勉強してるんでしょ?独身だから暇でしょ?」とか思われるのが甚だ遺憾で、「寝てます」と嘘をついている。寝てない。仕事してる。土日祝日ひたすら仕事をしている。仕事してる、なんていう事実は絶対に話したくない。
しかし、残り2か月は土日祝日の仕事を禁止してひたすら勉強をしなければ本気でやばい気がしている。どうしても今年受からなければならない。なぜなら、受験料2万超えを払った上に、前泊の宿代・新幹線代が無駄になるからである。負け試合はとことん嫌いだ。
これまで、大学受験をのぞき、重要な試験は2か月で乗り切ってきた。それが根拠となり、わたしは「2か月」でなんとかなる、という期待を持っている。2という数字で言えば、秘書検定2級は2週間だ(次元が低すぎて比較するのは申し訳ない)。
つまるところ、わたしには、未だ「幼児的万能感」が残っている。笑える。
余裕ぶっこいて職場で豪語しておきながら、不合格という烙印を押されるのはわたしのプライドがズタボロだ。言い訳はしたくない、でもしたい。しかし、勉強してませんでした~という言い訳は本当に恥ずかしいことだと思う。頭が悪いだけだろと思う。
そう、わたしは頭が悪い。というか、ワーキングメモリが基準値しかない。でも、実測すれば、基準値以下だと思う。だって、ここ数年「アレ、アレ」「ほら、アレですよ」というふうに指示語を多用している。指示語以外の言葉が想起されなくなっている。年齢的に、ちょっと早いと思う。
でもそれは、歯並びのせいだと思う。ここ10年で、進行した歯並びは、もはやわたしの言語領域まで侵し始めたと思っているが、親曰く「頭の問題だろう」というのである。否定したい。全ては歯並びのせいだ。アレ、しか言えないのは、歯並びがアレなんで発音がアレになるんで、アレコレ言うのがいやでアレと表現したくなるという心理的な問題によるアレなのだと思う。
全てはアレなんです。諸悪の根源はアレ。
そうこうアレアレ言ってると、とてもじゃないが眠れない。眠れなさ過ぎて、突然だが、アレコレ捨てたい衝動に駆られた。
そんな時、「そうだ、アレを捨てよう」と思い立った。アレっていうかアイロン台。アイロン台は、一人暮らしを始めて15年この家にあるのだが、使ったのは20回未満だと思う。
おまけに、現在うちには、アレがある。ティファールのハンディアイロン。これ、いや、アレは、大変便利なものであり、ちょっとしたシワ伸ばしなら余裕なのです。ちょっとしないアレなシワ伸ばしするようなものは着ないので、もっぱらこのティファールで事足りる。事足りないことがあったとしても、ご愛敬とするまで。
だから捨てました。捨てるっつっても、不燃物が混じってるんで夜な夜な分解。深夜2時。ちなみに普通に仕事してるから、朝は6時に起きますけど?
握力衰えすぎたせいで、きっつーいネジを外す時にネジがバカになってしまった。それをペンチで無理やり抜き取った。今流行のDIY!!というか、むしろ壊してるんだけど。
それで、こんな工具などが入っているボックスを開けると、S字フックが入った缶を発見。そこを開けてね、なんか悲しくなったんですよ。
わたし、コレ、いつまで持っているのかなぁ、って。
去年の引っ越し時に、色々捨てた。不要なものは断捨離。だからわたし、比較的ものは少ない生活をしていると思うんです。あんまし、物を取っておかない。
しかしね、処分に困るのが、「謎のコード」と「謎の部品」。
どのコードだったのかよくわからなかったり、何の部品だかよくわからなかったり。謎の部品は、この工具箱の中に入っていたりするんだけど、マジで何の部品なのかわからない。ここ2年くらいは、その時には使わないコードや部品にはメモをつけるようにしてるんだが、それ以前のモノとなると、一体なんのものかわからない。
これが、捨てるに捨てられないモノと化すんですよね。今は使っていないが、使う必要が出てくる気がするんだ。謎のコードしかり。
こんなのも入ってた。
虫ゴムって知ってます?自転車のタイヤの、空気注入する部分をフタするヤツです。コレ、いらねぇ。しかし、アレだよな、タイやの仕組みについて知らん人は、タイやの空気抜ける=パンクって連想するじゃないですか。しかし、虫ゴムを変えるだけで悩みが解消することだってあるんですよ。わたしは知らなかった。
ちょうど、ウチの父親が車専門の人だったので、昔、ウチに来た際にコレを買ってきてコレをつけかえたわけなんです。わたしは、虫ゴムという名称すら知らなかったし、これがホームセンターで買えるということもしらなかった。最近はめったに自転車にも乗らなくなりましたが、これは父親の形見としてとっておくべきだと思っている。そのうち劣化するだろうけども。
こんなふうに、部品にも思い出があったりする。
しかし完全に謎の部品もあった。
マジで謎なアレだ。
謎すぎて、捨てるに捨てられなかった。
わたしは思ったんです。自分の、30年40年50年後を。
わたし、その時まできっと、コレを捨てられずにとっとくんじゃないかなぁって。謎が詰まった箱の中身は、なかなか断捨離できなくて。
「これ、なんの部品かなぁ」って、80歳までとっておくんだろうって。そして、80歳になっても同じように工具箱を開けて「謎の部品……」とか思って、そして、わたしの死後もこの部品がそこにあるんじゃないかって。
あーって。あー、って思った。
そんな何十年先でも、わたしは変わらない、変われない日々を送ってんだろうなと。謎の部品をマジマジと見つめ、そういや50年も前からあるけどナニコレ?とか思ってんのかもしんない。
苦しい。とてつもなく苦しい。この先50年、わたしは無為な時間を過ごし続けるしかなく、そして50年先、今と変わらずわたしの隣には誰もいないだろう。見舞う人もいず。両親もいない。そして、兄弟も生きているかわからない。というか、自分でさえ50年先いるのかわからない。むしろ、今の心境で言えば、そこにいたくないのだが。
謎の物体と共に寄り添って生きる、先何十年、想像しただけでも悲しい。50年先、この記事とともにわたしが未だ漂っているのであろうか?
今のこの生活から劇的に何かが変わるなんて、想像できないし想定の範囲外でしかない。変化のない日々でただ呼吸をしながら、わたしはわたしの謎の部品に問いかける。
あんた一体、なんのためにそこにいるの?
ぴったし合った場所を、思い出せぬまま。
※本記事は、2018年7月12日に自サイトにて投稿した文章を加筆修正したものです。
※※追記 この記事執筆から5年経過した今、記事内の「謎の部品」が何なのかわかるし(ナットをしめる道具だろう)、この時の生活から劇的に変わっているし、何よりも隣に夫がいたりする。本当に、人生は想定外。
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