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SDGsを追求するのが不毛に思えてきた

 空を見上げたりすると「子供の時となんか感じが違うな~、雲とか空気感とか」とよく思う。気候変動の影響だろうか。

 正直、前回の記事のタイトルに合わせただけなので、思えてきたと言うよりだいぶ前から思っているし常々思っている。

 noteにおいて過去の記事を振り返れば自分はそれなりに言及している。なんなら自分でも「言及し過ぎじゃねえか?」と思うくらい。
 「お笑い」「生き物」(≒「自然環境」「生態系」)、自分の人生やアイデンティティに関わっていると意識しているので考えるのだが、如何せん疲れる。そして不毛さを感じる。

 SDGs、自分が環境問題について考えようと農学部に入ったのもあるし、社会的に強い立場にいなもしなければ人の平均から外れてもいることを自覚している自分は多様性に縋って生きる必要がある。だから尊重する。
 そもそもがSDGsは現代の社会的な正義の下に制定された目標だし、その概念が定義されるずっと前から「資源を守ろう」とか「差別や格差をなくそう」とか普遍的な考えであるはずだし。

 でもそういうことを声高に主張するとメンドクサがられる。気持ちはわかる。BBCとか海外制作の野生動物の映像番組を観ても毎回毎回十中八九「地球温暖化によって~」のナレーションで終わる。そうなのだが「そう言われましても…」と思う。元よりそういうのが好きで観ている身としては幾度聞かされたか憶えていないし、個人でやることには限界がある諦念しか感じない。

 ちゃんとした生物系の学者先生とかは裏で真剣に考えて取り組んでいるんだろうけど、無駄に具体的に動く視界に入る存在が悪目立ちしている。
 コミケに行ってビッグサイトから帰る人混み、例のヴィーガンだか動物愛護だかのプラダンボールのR-15ものの看板にキャリーカートを引っ掛ける。

 普通に邪魔だし「海外の『モナ・リザ』にトマトスープをぶちまける手合いと同じようなのが日本でもいるのか」と思った。
 SDGsとか多様性とか環境保全とか動物愛護とかを考えるのは、社会的な正義。それを先進的な考えを持っているアピール要素にしたり、アイデンティティとして着飾ったり、パフォーマンスに使う人間を数えたらキリがない。その正義に縋って社会的に間違ったことをする。反感を買うことやらせて末端の人間の組織への依存を高めていく。

 そしてSDGs=メンドクサいの図式が成り立っていく。だからあんまり口にできない。正直こんなこと書いている時点でメンドクサがられている気がする。

 5年前、環境大臣時代の小泉進次郎がマスコミにステーキを食べたことを言及されて「毎日でも食べたい」と返してさらに批判された。

  小泉進次郎のことは好きでもないけど正直嫌いでもない。好きなものや旨いものを可能ならば毎日食べたいなんて大抵の現代日本人が思っているし、実際毎日食べている人間は普通にいる。でもってそれをずっと次世代もそれを可能にするには考えなきゃいけない。どうしたら毎日ステーキを食べられるか、寿司を食べられるか、チョコレートを食べられるか… それがSDGsの本質、豊かな生活。それなのにマスコミや世間は叩き棒にする。
 レジ袋有料化は本当によくなかったとは思っている。でもそれは仮に国民全員が高い環境に対するリテラシーや意識があるのなら資源消費の削減で効果があっただろうが、公園や道路にはポイ捨て不法投棄が絶えることないし、空き缶入れにはスタバの極太カップが詰まらせてある世の中じゃなんの意味もない。

 実際のところ、世の中の人間は持続可能性についてあんまり考えていないような気がする。今の生活が漠然と続くものと思っている。自分だって本当はそう思っていたい。

 資源の保全をしないまま不作や不漁で美味しいものが食べられなくなるかもしれない。災害で交通網麻痺・停電・断水が起きてイベントや娯楽がなくなって経済的損失が発生する。酷暑や獣害で本気で命が脅かされる。
 生物多様性や持続可能性を考えるべき理由は多々あるのに、優等生ぶった偽善者やトマトスープぶっかけ勢と同類に思われるのがイヤなのだ。だから黙ったまま考えては疲れる。

 とりあえず相変わらずの暑さと台風の影響で調子が悪い。ハリウッドザコシショウの単独公演も延期になってしまった。

 ゴスッ!!

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