見出し画像

地獄への道を舗装しているもの

『地獄への道は善意で舗装されている(The road to hell is paved with good intentions)』というイギリスのことわざがある。

初めて耳にした時はよくわからなかったけれど、経験を重ねるごとにこの言葉の重みを感じるようになってきた。

私たちは普段、よかれと思って行動を起こす。

だからこそ自己評価として自分は常に『善である』と思いがちなものだし、まさか自分の善意が地獄へ続いているとは想像もしないことが多いのではないだろうか。

しかも善意はいいものとされているからこそ、ストッパーがいないことで地獄への道に拍車をかける。
いいことだと盲目的に信じ、自分の考えを疑わない人たちが集団化すると、『空気』という巨大なモンスターが生まれしまうこともある。

だからといって、善意をが無意味だというわけではないし、自分がよいと思ったことは行動に移すべきだと私は思う。
ただ、善意をもとにした行動であっても、結果として人や自分を地獄へ誘ってしまう可能性があることを頭の隅にいれておく必要があるということだ。

さらに最近、もうひとつ地獄への道を舗装するものがあることに気づいた。

それが『やりたいこと』だ。

一般的にやりたいことがあることはいいことだとされている。しかし、どんなものでも多過ぎれば毒になりうる。

特に目の前の面白そうなことは、砂糖のような快楽に近い。

あれもこれもと手を出した結果、少しでも血糖値が落ちると甘いものを食べずにはいられなくなってしまうように、刺激的な『やりたいこと』がなければ満足できなくなってしまうのだ。

そして善意と同じで、やりたいがあるのは一般的にいいことだとされているため、止める人が不在になってしまう点が大きな問題だ。

本人としても、(目の前の)やりたいことをやっているのでアドレナリンによって体力的にも多少の無理はきく。

もちろんやりたいことがあること自体は幸せなことだし、さらにその期待に応え続けられる力があることは素晴らしいことでもある。

しかし、人生は有限だ。

私たちは、やりたいことをつい絶対評価で見てしまうけれど、時間という制約がある限り、『今何をやるべきか』は常に相対評価によって決定しなければならない。

やりたくないことを断れるくらい力がついてきたら、今度はやりたいことの中から優先順位をつけて適宜断るという高等技術をつけなければならない。

軽い気持ちでやりたいと思ったことでスケジュールを埋めてしまったら、本当にやりたいことのチャンスが回ってきたとき、受け止められなくなってしまうからだ。

昔から『勝って兜の緒を締めよ』と言うけれども、やりたいことをやって楽しく時間を過ごしているときほど、その楽しさによって見えなくなってしまっているものがないか、自分の足元を振り返る必要があるのかもしれない。

★noteの記事にする前のネタを、Twitterでつぶやいたりしています。

ここから先は

0字

「余談的小売文化論」の内容に加え、限定のSlackコミュニティにご招待します!

消費文化総研

¥2,500 / 月 初月無料

「消費によって文化を創造し受け継いでゆくこと」を考えるコミュニティマガジンです。 有料マガジンの内容に加え、購読者限定Slackで議論を深…

余談的小売文化論

¥800 / 月 初月無料

「知性ある消費」をテーマに、現代の消費行動や理想論と現実的な問題のギャップについて考え、言語化しています。「正解」を語るのではなく、読み手…

サポートからコメントをいただくのがいちばんの励みです。いつもありがとうございます!