そこに、大義はあるか。
ヴィクトール・E・フランクルは、『夜と霧』の中で「わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているのかが問題なのだ」と言った。
私たちはいつも、人生から「君たちはどう生きるか」と問われている。
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吉野源三郎の名作『君たちはどう生きるか』が漫画化したと聞き、久しぶりにこの作品を手に取った。
以前読んだときよりもはるかに心に響く箇所が大きかったのは、漫画によって各シーンが現実感をもってイメージできるようになった点もさることながら、やはりこの作品が本質的なテーマを扱っていることが大きいように思う。
「生きていく」ということは、ある意味で利己的にならざるをえない場面も多々ある。大人になって、自分の手一本で生きていかなければならなくなると、より一層自分の身を守る意識が強くなる。
そしてふと自分の生活を振り返って思うのだ。
「自分はこんな大人になりたかったのだろうか」と。
おじさんのノートの中で、コペル君たちが興味を持ったナポレオンの一生を引き合いにだして書かれた「偉大な人間とはどんな人か」という章がある。
ナポレオンは、一介の貧乏士官からヨーロッパの支配者にのぼりつめ、あっというまに転落していった。
彼が歴史の舞台で活躍した20年ほどの歳月を丁寧に振り返りながら、おじさんは「偉大な人間とは」の問いにこう答える。
英雄とか偉人とか言われている人々の中で、本当に尊敬ができるのは、人類の進歩に役立った人だけだ。そして、彼らの非凡な事業のうち、真に値打ちのあるものは、ただこの流れに沿って行われた事業だけだ。
ナポレオンが英雄になったのは、当時の封建制度を打ち破る革命を推し進めたからであり、新しい世の中、より素晴らしい世界を作ってくれるであろうという時代の期待感が彼を後押ししたからである。
対して、彼がヨーロッパの支配者としての地位からまっさかさまに転落したのは、その期待を裏切って自分のためだけに権力を乱用したからである。
どこまで登りつめても、どれだけの権力を手にしても、人の生活が今日よりよくなるための行動ができなければ、あっというまに追い落とされる。むしろ、なまじ地位を確立してしまうと注目を浴びやすくなる分、一気に憎悪の念を集めやすくなってしまう。
古来から、ギロチン台に送られるのは自分のことしか考えられなくなった権力者だ。
何かを動かす力を持つ、ということは、世の中のために尽くすことと不可分である。
そして、偉大な人物というのは、長い目で俯瞰してものごとを見ているものだ。今日の自分の享楽ではなく、100年後の世界を見ている。
おじさんのノートの「偉大な人物とは」の章を読みながらそう考えていた時、『氷川清話』に出てくる勝海舟の人物評論の章を思い出した。
全体大きな人物といふものは、そんなに早く顕れるものではないヨ。通例は百年の後だ。今一層大きい人物になると、二百年か三百年の後だ。それも顕れるといったところで、今のやうに自叙伝の力や、何かによって顕れるのではない。二、三百年も経つと、ちやうどそのくらゐ大きい人物が、再び出るぢや。其奴が後先の事を考へて見て居るうちに、二、三百年も前に、ちやうど自分の意見と同じ意見を持つて居た人を見出すぢや。そこで其奴が驚いて、成程えらい人物が居たな。二、三百年も前に、今、自分が抱いて居る意見と、同じ意見を抱いて居たな、これは感心な人物だと、騒ぎ出すやうになって、それで世に知れて来るのだヨ。知己を千載の下に持つといふのは、この事サ。
今の人物はどうだ、そんな奴は、一人も居るまいがノ。今の事は今知れて、今の人に誉められなくては、承知しないといふ尻の孔の小さい奴ばかりだらう。
勝海舟といえば、江戸城無血開城の立役者でありながら、旧幕府側からは腰抜け扱いされ、新政府側からは敵対視され、味方がいない中で己の大義を貫き通した人である。
幕末史好きの中でも坂本龍馬や西郷隆盛と比べて話題に上ることは少ないが、「江戸百万の命を守る」を己の大義として、江戸での全面戦争を回避することに心血を注いだ彼の一生は、まさに偉人と呼ぶにふさわしいと思う。
当時は誰からも理解されず、旧幕派からも薩長勢からも暗殺されそうになりながら長く不穏な時代を過ごしているが、本人は「何か成し遂げようとするなら、周り全部敵がいい」とケロッとしている。
それはきっと、彼にはずっと先の未来が見えていて、そのために自分が今やるべきことを強く信じていたからだ。
本当に偉大な人が見ているのは「今の自分」ではなく、「未来の世界」だ。
今評価されることに主眼を置くと、道を誤る。
大切なのは、自分が未来に対して何をできるか、なのである。
『君たちはどう生きるか』の中でコペル君が「人間分子の関係、網目の法則」を発見するが、私たちの生きる世界には、横の網目だけでなく歴史という縦の網目もある。
歴史的に偉大な人物だけでなく、両親や自分の先祖をはじめ、名もなき市井の人々によっても私たちの生活は作られている。
その大きな流れの一滴として、私たちは何ができるか。それを問うてくるのが『君たちはどう生きるか』という作品なのだ。
ちなみに『氷川清話』の最後は、勝の人生哲学とも言える一言で締めくくられている。
世間の人はややもすると、芳を千載に遺すとか、臭を万世に流すとかいって、それを出処進退の標準にするが、そんなけちな了見で何が出来るものか。男児世に処する、ただ誠意正心をもって現在に応ずるだけの事さ。あてにもならない後世の歴史が、狂といはうが、賊といはうが、そんな事は構ふものか。要するに、処世の秘訣は誠の一字だ。
現在においても未来においても、世間の評価など構わず自分が正しいと思った道を貫け。
それこそが、真に偉大な生き方なのだと思う。
***
コペル君と共におじさんのノートを読みながら、私たちは自分の人生を振り返る。
あのときもこのときも、自分は「真に立派な人間」ではなかった。
世間の目ばかり気にして、自分自身で考えることを疎かにしてきてしまった。
世の中をよくすることよりも、自分の享楽ばかりを優先してきた。
読み進めるうちに後悔ばかりが積み重なっていく私たちへ、おじさんはノートを通して最後にこう優しく諭してくれる。
僕たちが、悔恨の思いに打たれるというのは、自分はそうでなく行動することもできたのに−、と考えるからだ。それだけの能力が自分にあったのに−、と考えるからだ。
正しい理性の声に従って行動するだけの力が、もし僕たちにないのだったら、何で悔恨の苦しみなんか味わうことがあろう。
後悔するということは、裏を返せばそれができるということでもある。
読んだ後に自分の人生を振り返って後悔したり、反省する心を持てたということは、私たちはまだここから「どう生きるか」を考え直すことができる、ということなのだ。
おじさんのノートは、まるで私たちの背中を押すように、ゲーテのこんな言葉で締めくくられる。
誤りは真理に対して、ちょうど睡眠が目醒めに対すると、同じ関係にある。人が誤りから覚めて、よみがえったように再び真理に向かうのを、私は見たことがある。
私たちはここから、「どう生きるか」を自分に問い直すことができる。
「君たちはどう生きるか。」
私たちはいつも、人生からこの問いを投げかけられていることを、忘れてはいけない。
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