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エマ・クーパー『知られざるマリリン・モンロー 残されたテープ』

エマ・クーパー『知られざるマリリン・モンロー 残されたテープ』を観る。「大統領や総理大臣の代わりはいるだろうが、俺の代わりはいないんだ」とは往年の名優・勝新太郎の言葉だというがこれはなかなか深い言葉ではないかと思う。ひろゆきやイーロン・マスクだって、彼らの果たしている役割を引き受けられる「代わり」はいくらでもいるだろう。が、彼らはその唯一無二のキャラクターないしスキルにおいて光っているとも言えるのだから、その意味ではかけがえがない存在でもあるわけだ。私はこれからの人生でカリスマ性を発揮したスターになることなどまったくないと思うのだけれど、この『知られざるマリリン・モンロー』を観てそのスター性について考えさせられてしまった。

しかし、この『知られざるマリリン・モンロー』は実に渋いドキュメンタリーであるとも思った。私はただの下心が発達したエロいおっさんなので『ブロンド』の予習のつもりで観たかったのと、あとは今世紀最大のセックス・シンボルとしてのマリリン・モンローを観て眼福を味わいたかったという動機でこのドキュメンタリーに触れたのだが、まず思ったのはマリリン・モンローの生い立ちや修行時代、そしてスターになってから時代の立役者たち(ジョー・ディマジオやロバート・ケネディ)を渡り歩いて浮き名を流した、その概要が語られないことである。それはもう「わざわざ語らなくても、ご存知のことでしょう」ということなのだろうな、と思った。

そういう意味で言えば、何気にハードルが高いドキュメンタリーであるとも言えるのだった。私も少しばかりはマリリンに関する知識があったのだけれど、改めて観てみて自分のマリリン観とでも呼ぶべきものを根本的に問い直すべきだろうな、と。このドキュメンタリーだけを観ていてもマリリンが実に聡明な女性であったことは伝わってくる。知られるようにマリリンはブロンドを売りにした――海外ではブロンド/金髪の女性はしばしば「無知な女性」としてジョークのネタにされるようだが――実に尻軽な女性としての役柄を演じて名を馳せた。しかし実際のマリリンは演技の勉強に熱心で政治にも切り込めるアクティブ&アグレッシブな一面も持っていたことが語られる。

そうした彼女の聡明さが、ある意味では彼女にとって不幸に働いたところもあったのかもしれない。彼女のキャラクターとして触れられるのは不幸な生い立ちを経なければならず、父親への愛情が屈折した形で現れていたということでもある。ファザコン、と言ってしまえば身も蓋もないがそんなキャラクターは『ブロンド』でどう語られているのか楽しみに思う。と同時に、彼女の屈折した愛がやはりアクティブ&アグレッシブな男たちであるディマジオやケネディに向かったことを思うと複雑な気持ちにもなるのだった(ケネディの絶倫ぶりについても触れられるところ、少しずつだが確実に性欲を失いかけている私としては苦笑してしまう)。

だが、こうして見ていくと改めて「で、どうして彼女は亡くなったのだろう」という肝腎のところが見えなくなる。上に書いた整理にも触れたが政治におけるアンタッチャブルな問題に触れかねなかったところ(当時のホットな問題としての「核開発」が挙げられうるだろう)、そして彼女自身が男たちを渡り歩いても結局幸せを掴めなかっただろうこと(今で言うところの「生きづらさ」だ)、もしくは単に当時危険な薬であった睡眠薬を飲み過ぎてしまったこと。この3種の原因が考えられる。このドキュメンタリーでも「真相」は語られたような語られなかったような、隔靴掻痒な結末となるのだった。

しかしその結末のカタルシスだけでこのドキュメンタリーの評価を下して葬り去ることも控えたい。生き馬の目を抜く状況を「女性」として(つまり、男に奉仕するしかない尻軽なキャラクターを強いられる時代を生き抜く人間として)確かに生き抜いたマリリンのことを私は好きになった。いや、彼女の魔性の魅力に恋してしまったとも言えるかもしれない。セックス・シンボルということで言えば誰だっていずれ歳を取り性的魅力を失うだろうが、彼女がもしも生きていれば……という想像を繰り広げてみるのも楽しいのではないかと思うのだ。おばあちゃんになったマリリン……は、実は意外とタフに「私の代わりなんているわけないじゃない」と言い放つキャラクターに成長していたのかな、とも思ってしまう。

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