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アンドリュー・ドミニク『ブロンド』

アンドリュー・ドミニク『ブロンド』を観る。毎度ながらアホなマクラだが、記憶というのは恐ろしいもので実は私は平岡正明のマリリン・モンローをめぐる書物『マリリン・モンロー あの尻をねらえ』というものが岩波新書に存在する、と思い込んでいた。もちろん冷静に考えれば岩波書店がこんなタイトルや引いてはこんな論者の本を出すわけがないのだが、今回この駄文を書くにあたって調べてみたところ亀井俊介の『マリリン・モンロー』という岩波新書と平岡のマリリンをめぐる何かの文章の記憶がごっちゃになってしまったということらしい。危うく大恥をかくところだった、と胸を撫で下ろしたのだった。

さて、『ブロンド』なのだけれどこれも上に書いたマクラを引き継げば史実に基づいた映画ではないのだろうな、と思った。大筋ではマリリンの人生をなぞったものではあるようだ。パッとしないワナビーだったマリリンがチャンスを掴んでスターダムにのし上がり、ジョー・ディマジオやアーサー・ミラーといった男たちと浮き名を流す、という出来事は実際にあったこととそう大差はないらしい。だが、逆に言えばこの映画はそんな史実を踏まえつつもかなりマリリンという女性を素材として脚色している、とも受け取れる。流行りの言葉を使えばマリリンの人生を「Remix」しているとも思われるのだった。

ではその「Remix」ヴァージョンはオリジナルより旨味が増しているだろうか。私はこれに関しては少し厳しく見ておきたいとも思うのだ。というのは、この映画はマリリンの主観にかなり肉薄した視点から綴られているので、観ていて夢見心地にさせられる。しかもその「夢」はかなりの悪夢だ。マリリンが中絶を強いられる場面、そしてその中絶(彼女にしてみれば立派な「人殺し」だろう)のトラウマが時折蘇る場面……それを言い出せばマリリンの本名であり「素」の人格であるノーマ・ジーンがマリリンというキャラクター/パブリック・イメージに呑み込まれてしまったかのような様相を呈するところ、悪夢としての濃度/強度は相当に凄まじい。

なので、この映画を観ていて「胸がすく」というかカタルシスを感じさせられるところが皆無であるところ、気になったのだった。胸糞悪い映画とも言える。この胸糞の悪さは、私にはラース・フォン・トリアーの映画を思わせられるものだった。トリアーの映画もある意味(かなり鬱状態の人間が見た)悪夢のような作品であることを思い出す。トリアーの映画はビョークやニコール・キッドマンといった女優たちを素材に精巧な時計の如く悲劇へ落ちていく人々を撮ったものだと思うので、『ブロンド』が気に入った人はトリアーを観てみるのも一興かなと思う。ちなみに私はトリアーは確かに「才人」だと思うが嫌いな監督でもあるのだった……。

この映画、ロッテントマトやFilmarksではかなり評判が悪いようだ。「マリリンの人生をパブリック・ドメインと勘違いしてないか」といった評もTwitterで見かけた。私はそこまで激怒するほどマリリンに思い入れがあるわけではないが、しかし昨今ポリティカル・コレクトネスの視点から「女性」が見直されている時代にここまで女性が一方的に虐げられる映画を撮るというのも、相当に「鈍感力」がないとできないのではないかとも思う。いや、映像は美しいのだ。だからこそトリアーの映画よろしく、私の記憶の中で観た内容が生々しく活き続けている。下手をすると今日、夢の中にアナ・デ・アルマスが「ププッピドゥ」と登場するかもしれない。

では、お前はどんな映画を観たかったんだと半畳を入れる向きもあるかもしれない。思うのは、このスティーヴ・エリクソンの小説のような迷宮世界を決して嫌いになれないということだ。だから、もっと批評性を持ち込み「マリリンがノーマ・ジーンを乗っ取る恐怖」や「マリリンのパブリック・イメージしか見ない外野」を言葉を尽くして(つまり、セリフで語らせることによって)描けばよかったのではないかと書くことになる。もちろん私に映画のイロハなんてわかるわけがないのでこれはプロ野球における外野の野次になってしまうのだが。ともあれ、なかなか剣呑な映画を観たものだと思った。

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