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2023/01/10 BGM: Radiohead - My Iron Lung

ふと今日、「やりたいことをやりなさい」という言葉について考えてしまった。恐らく読んでいた小坂井敏晶の本の影響によるものだろう。「やりたいこと」……私はずっと自分の「やりたいこと」として書くことを選んできた。リルケやカフカに倣って、半ば祈るように書くことを続けてきた。ある時期までは(いつも書いているが)それで生活を支えられればと思っていた。でも、もしそんな夢が叶うことがないとするなら、自分は書くことを諦めるだろうかとも思った。そこから出てきた答えは、恐らく自分は諦めないだろうというものだった。書くことはただそれだけで満ち足りていて、楽しい。だから一生かけて続けるだろうと思う。

その昔就職活動をしていた時、孫正義が「皆さん、夢を持ちましょう」と語りかけていたのを覚えている。その後就職活動がさっぱりうまく行かなくなって酒に溺れ始めたのもいつも書いている通りだが、そんな失意にあった自分にとってはその「夢を持ちましょう」は(相当に卑屈に聞こえると思うけれど)「強者の論理」だった。あなたは功成り名遂げた人間だからそんな風に言えるんでしょ、と。逆に言えば私はずっと自分自身を弱者であり不幸な人生の主人公と思っていたので、それゆえに自分自身を無力な若造/青二才と思い込んでいたのだった。

レディオヘッドに「プラネット・テレックス」という曲がある。どこへ行っても聞こえてくる「何もかもぶち壊しだ/どいつもこいつも壊れている」というメッセージについて語られた曲だ。私がこの曲を荒唐無稽と片付けられないのは、私自身にとっては日常生活自体が「夢を持ちましょう」というメッセージに支配されているとすら言えるのではないかと思うからだ。反感を買うのを承知で言えば、その「夢を持ちましょう」という言葉が人を追い詰め「壊して」しまうのだとするなら、それに抗ってニヒリスティックに「夢なんてない」「人生に意味なんてない」と居直る方がまだしも救いになるのではないか、とさえ思う。

夢とは、ある種呪いのように働くところがあるのかもしれない。見果てぬ夢を見続けることが現実と夢とのギャップを自覚させ、人を苦しめる。自分の限界を知らないままに夢を見ることが、いつの間にか夢に追い立てられプレッシャーとなり、うまく行かない自分の現実を惨めに思わせられ、それでもウォルト・ディズニー的な「夢は必ず叶う」という希望を捨てられず、苦しむ。だから私は自分の人生に夢や大目標といったものを設定していない。日々、小さな達成を重ねる。日記だって「1年間続ける」なんて大目標を設定したことは一度もない。その日その日書くとそれがいつの間にか大きな達成になっている。これが私の生きる道、だ。

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